Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

ハリウッドはアジア文化の軽視をやめろ、餅の声を聴くな

ニューヨークが舞台のNetflixシリーズをハリウッドと一緒くたにして良いのか分からないが、とにかく今回文句を言いたいのは『Dash & Lily(ダッシュ&リリー)』だ。Netflixといえば進歩的な作品が多い印象があるかもしれないが、実はあえて前時代的でベタな作品も多い。タイトルにクリスマスと入っていればだいたいそうだ。一般女性が異国の地で王子様に見初められるとか、異国のお姫様が自分と瓜二つのドッペルゲンガーだったとか。
 
 
ダッシュ&リリーはタイトルにこそクリスマスの文字は入っていないが、全編を通してクリスマスムード全開のティーンドラマだ。そもそも原作がヤングアダルトなので、大味であろうことは想像していた。この作品で注目したいのは、ヒロインのリリーが日系だということだ。
 
今年は日系キャラ躍進の年だった。『The Baby-Sitters Club(ベビー・シッターズ・クラブ)』(Netflix)のクラウディア・キシ(モモナ・タマダ)は、おしゃれでクールでアートが得意で、ガリ勉で大人しそうな日本人のステレオタイプを破る画期的なキャラだ。後から知ったがその存在は原作小説の出版時から大変アイコニックで、Netflixではアジア系クリエイターたちがこのキャラへの愛を語るドキュメンタリーも配信されたほどだ。このドラマでは途中クラウディアの祖母が日系人収容キャンプについて語るエピソードもある。
 
 
 
『Never Have I Ever(私の"初めて"日記)』(Netflix)では、学校一のモテ男、パクストン・ホール・ヨシダをダレン・バーネットが演じた。役名に日本の苗字がなかったら、彼の見た目と名前だけでは、日系であることに気がつかなかったかもしれない。実際当初このキャラには日系の設定はなかったが、彼が日系であることを知ったプロデューサーのミンディ・カリングがそれを取り入れ、日本語をしゃべるシーンも入れたという。
 
 
 
それほど出番はなかったが、映画『GOOD BOYS(グッド・ボーイズ)』では小学校の人気者の男子が日系の設定だった。そして、この作品で小学生たちを追い回すなかなか激しい女の子を演じたのが、ダッシュ&リリーでリリー役のミドリ・フランシスだ。リリーは苗字こそ明かされないものの(お父さんは白人)、ジェームズ・サイトウ演じるおじいちゃんの苗字はMoriで、お母さんはジェニファー・イケダ、兄はトロイ・イワタが演じる。
 
序盤は特にリリーがアジア系であることがアピールされることはなく、服がすべて自分の手作りであるという以外は部屋も(テレビで見る)アメリカの普通のティーンエイジャーのものだ。めちゃくちゃ天真爛漫な朝ドラ系キャラだが、同年代の友達がいないらしい。小さい頃にマイノリティであるが故に受けたトラウマが原因らしく、大学生や大人とつるんで聖歌隊をやっていたりする。
 
大好きなクリスマスに家族が予定を入れてしまい一緒に過ごすことができないと知ったリリーは、恋人を作らねば、との強迫観念で(兄のゴリ押しもあって)従兄が働く本屋にあるノートを仕込む。ノートは文学好きでないと分からないヒントを次々解いていくと先に進めるゲームのようになっており、リリー好みの年頃の男子を選別するための質問も書いてある。これをたまたま見つけて解き進んだダッシュ(オースティン・エイブラムス)が、今度は自分からヒントを書き込み、リリーと会わないままノートを通してやり取りしていく。
 
ノートではさまざまな行動も指示される。ダッシュはある日、リリーの指示通りに“餅作り教室”に参加する。そこには英語を話さないらしい日本人のおばあちゃんたち。(追記:BGMはSukiyaki)リリーは日記に「言葉が通じないとはどんなことか体験してみて」と書いている。通じないというか、ダッシュは英語で話しかけるが、おばあちゃんたちはお互いにも一言もしゃべらない。日本語もだ。
 
人には身振り手振りというものがあるのに、誰にも教えてもらうこともできず、ダッシュは見よう見まねで餅(要は大福)を形作ってみる。すると、不出来だわね、といわんばかりの表情のおばあちゃんが、無言でその餅をゴミ箱に捨てる。ダッシュがノートに目を落とすと、そこにはリリーからのアドバイス
 
Listen to mochi.
 
餅の声を聴け。
 
餅がしゃべるのか? 唸るのか? ここをつねって、とかここを押して、と言うのか? それとも耳を澄まして禅の心を習得すれば、途端に菓子職人の手さばきが身につくのか? 日本人だからといって皆が物と会話しているわけではない。あんまりKonmariさんの番組を真に受けないでほしい。しかしそこはさすがハリウッド、ダッシュは餅の声を聴き取ることに成功し、きれいな形の餅を作る。おばあちゃんたちは、さっきまで無視していたのが嘘のようにダッシュのほうを向き、一斉に笑顔で拍手する。👏👏👏
 
続いて出てくる日本的なシーンは、大晦日の家族の食卓だ。厳かにお屠蘇をまわしているが、食卓には年越しそばが控えている。どのような順番で何を飲み食いしようと各家庭の勝手だが、わざわざこんなシーンを入れるなら、一般的なやり方をちゃんと調べてくれたっていいだろう。
 
リリーと両親は父親の急な都合でフィジーに引っ越すことになり、おじいちゃんは家族が集まる最後の機会にと、正月に仏教会を借りる。それまでこの家族がそんなに信心深いことを示す描写は何一つしていないのにだ。
 
そしておじいちゃんは、孫2人にお年玉を渡す前に、一人ずつこの一年間の講評を始める。そもそも高校生と大学生の2人はお年玉をもらうには大きすぎると思うが、それを差し置いても、お年玉をもらう前に「お前は大学にも戻らずフラフラして…」なんて儀式のように説教を聞かされるところなど日本では見たことがない。いやそういう家庭もあるのかもしれないが、あったとしてもそんな家父長制バリバリの家庭をさも日本のスタンダードのように見せてほしくない。
 
この作品は、原作者も白人だし、imdbを見る限りキャスト以外に日系人もいそうにない。いたとしても、少なくとも意見を出せる立場にはなさそうだ。リリーの設定が日系である必然性はストーリー上まったくなく、それでもそのような設定をあえて選んでくれるのは大いに歓迎したいが、数あるハリウッド作品の例に漏れず、都合良くエキゾチックな要素を大して調べもせず入れ込んだだけになってしまっている。
 
これがアフリカン・アメリカンラテンアメリカンの文化を描いたものだったら反発があったと思うが、英語圏では批判はほとんど見られない。
 
もともと「今年は日系representationが熱い」というテーマの記事を年内どこかで書きたいと思っていたが、この作品が180°方向転換させた。主演2人はひたすら可愛いだけに残念だ。
 
ベビー・シッターズ・クラブはシーズン2の制作が決定しているので、クラウディアの活躍に期待したい。

コロナのある世界のドラマの話

コロナのある世界を反映する作品がちょこちょこ出てきた時は、なんだかやるせない気持ちだった。フィクションの中くらい、現実逃避させてくれたっていいのに。でもいつまでもそうは言ってられない。感染対策をしなければ撮影がいつまでもできないし、特に時世を反映させたドラマなんかは、この状況を無視していれば着々と現実味を失っていく。都合の良いところだけいつまでも逃げている訳にはいかない。
 
 
最初に観たリモート撮影作品は、『Staged』(英BBC)だった。デヴィッド・テナントマイケル・シーンが本人役で自宅から登場し、新しい演劇作品のリハーサルを遠隔でやるという名目で、ビデオ通話で延々と話しているだけの会話劇だ。舞台経験豊富で気心知れた2人の掛け合いはそれだけで楽しく、ずっと似たような画面なのに飽きさせない。リハーサルは一向に始まらず、実質近況報告をしたり、作品クレジットでどちらを先にするか言い争ったり、自主隔離生活で描いてみた絵を見せあったり、彼らが席を外していると思ったらそれぞれのパートナー(ジョージア・テナント、アンナ・ランドバーグ)が出てきて世間話をしてたりする。
 
どんな立場でもコロナで大変な思いをしていることに変わりないだろうが、彼らの場合は経済的にはそこまで困っておらず、とりあえずこうしてリモートで仕事をすることもできる。そして素敵な家族がいる。この状況を面白おかしく描いてくれる作品ももちろん必要なのだが、どこか「いいなあ幸せそうで」と思ってしまう自分もいた。
 
 
そんな時に不意に出会ったのが『Mythic Quest: Ravens' Banquet(神話クエスト:レイヴンズ・バンケット)』(Apple TV+)だった。『It's Always Sunny in Philadelphiaフィラデルフィアは今日も晴れ)』のロブ・マケルヘニーが企画・主演するゲーム会社を舞台にしたコメディで、正直9話まではそこそこといった感じだった(別格のスタンドアローンエピソードの5話についてはまた今度)。ところがスペシャルエピソードとして後から配信された10話が感動的だった。
 
ゲーム会社なので彼らも経済的にはいつも以上に潤っているし、仕事もリモートでできる。しかし若くて独身の、コミュニケーションがあまり得意でないような社員も多い。リードエンジニアのポピー・リー(シャーロット・ニクダオ)は、隔離生活の中で仕事に没頭し、それが一段落すると何をすればいいか分からず精神的に参ってしまう。クリエイティブディレクターのイアン・グリム(マケルヘニー)がビデオ会議で映像をオンにしてくれないポピーの様子を案じて問いただすと、ポピーは暗い部屋の中で泣いてボロボロになった顔を晒す。イアンはロックダウン最中の街を歩いてポピーに会いに行く(2人が友人関係だからできることで、そうでなかったら実質上司のイアンが家に来るのは怖いが)。
 
もちろんコメディなので、孤独に苦悩する人だけでなく、この状況なりの楽しみ方も描く。ビデオ会議でお互いの画面が隣り合っていることを利用して物をやりとりしているようなフリをする遊びはマネしたくなったし、ゲーム会社なので画面もそれぞれのウェブカメラ映像だけでなく、ゲームのプレー画面やコーディング画面も活用していて楽しかった。リモート撮影には最も適した舞台設定かもしれない。
 
 
そうこうしているうちに、感染対策をしながらリモートでなく現場で撮影しているドラマも始まった。Walmartのような大手スーパーが舞台の『Superstore』(米NBC)は、まさにエッセンシャルワーカーとして仕事を休むことができないスーパーの従業員たちが主役のコメディだ。社会問題に切り込むことが得意なこの作品はシーズン6の放映が始まったばかりだが、トイレットペーパーやマスクを買い占める客、マスク着用を拒むいわゆるKaren、やたらヒーローと賛美され戸惑う従業員たち、コロナ対応で多忙な中のBLMデモも既に描いた。
 
2話はシーズン1からメインキャラクターの一人だったエイミー・ソーサ(アメリカ・フェレーラ)の卒業エピソードで、何シーズンも焦らしてエイミーとやっとカップルになったジョナ・シムズ(ベン・フェルドマン)との別れの回でもあった。そんなエモーショナルな回なのに、コロナのおかげでハグもキスも一切なし。この時が一番コロナを呪ったかもしれない。元店長のグレン・スタージス(マーク・マッキニー)と別れを惜しむシーンでは、ハグの代わりに2人とも自分を抱き締めていて笑ってしまった。
 
 
エッセンシャルワーカーといえば医療従事者も忘れてはならない。『Grey's Anatomy(グレイズ・アナトミー)』(米abc)のシーズン17は、同作の舞台であるグレイ・スローン記念病院がコロナ指定病院になって少し経ったところから始まった。もともとマスクをしたシーンが多かったので違和感も少ないが、防護服のような服装を見る度に事の重大さをひしひしと感じる。
 
医師たちは多忙で疲弊しており、患者をコロナで失う度にこれまでにない無力感に苛まれる。現実世界で有効なワクチンが開発されていないのに魔法のように繰り出すわけにもいかないので、この先暗くなる一方なのだろうかと心配になる。マスクの効率的な殺菌方法(紫外線ライト?のようなもので部屋中にぶら下げたマスクすべてを一気に殺菌する)を医師が提案する場面があったが、あれは現場でも採用されているものなのだろうか。
 
もともと医者が所構わずイチャイチャしているドラマなのでそこも心配していたがそういうシーンは健在で、逆に「あれ…こんなイチャイチャして…いいの…?」となる。検査をパスしていれば良いということなのだろうか。
 
予期していなかったのは、主要キャラがコロナ患者となったことだ。医療ドラマでしかもコロナ指定病院が舞台だからそうなる可能性は大いにあるのに、どこかまだ他人事に捉えていたのかもしれない。コロナで主要キャラが死んでしまったら破局どころの騒ぎではない。でも時世を反映するとはそういうことだ。
 
主人公メレディス・グレイを演じプロデューサーでもあるエレン・ポンピオからは、「シーズン17で終わりかも」との発言も出ている。コロナ禍の世界を描くのに疲弊してしまったということでなければ良いが。
 

ウィル・フェレルの『ユーロビジョン歌合戦』はユーロビジョンを(あんまり)わかってない

Netflixで新作映画『ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜』が配信された。おバカコメディを量産してきたウィル・フェレルレイチェル・マクアダムスと組んで、ABBAセリーヌ・ディオンも輩出したヨーロッパの各国対抗ポップミュージックコンテスト『Eurovision Song Contest(ユーロビジョン・ソング・コンテスト)』出場を目指すストーリーだ。
ユーロビジョンを知る人なら、ウィル・フェレルの映画にこれ以上の題材はないと心躍ったに違いない。なぜならユーロビジョンは、最高に派手でおかしくて、自虐的パロディまでできる既にコメディさながらのコンテンツだからだ。
 
私がユーロビジョンに出会ったのは、ロンドンの大学に在学していた2007年。分かりやすくブリットポップオルタナティブロックに傾倒していた私は、テレビで流れるあまりに安っぽい音楽に「ヨーロッパにもこんなにセンスの悪い人達がいるのか…」と絶句したものだ。
(↑初めて観た年に準優勝したウクライナ代表の衝撃は忘れない)
 
しかしユーロビジョンの音楽は安っぽいだけではない。各国の審査員やテレビの視聴者の投票で勝者が決まるため、いかに派手な衣装を着るか(あるいは着ないか)、曲芸的なおまけを取り入れるか、そんな中でも自国の色をどうやったら少しでも出せるか、各国が凌ぎを削った集大成を観ることができるのだ。
 
いくらバカにしていても、キャッチーで変わった音楽とド派手で変わった演出のパフォーマンスの数々は、一度観てしまうと頭から離れない。加えて、LGBTQのアーティストも数多く出場し、さまざまな言語や民俗音楽(のようなもの)にも触れられるという、とてもインクルーシブな側面もある。
 

2016年のホスト2人による幕間のセルフパロディを観ると、パフォーマンスの傾向が一気につかめる。

これによると、ユーロビジョンに勝つ秘訣はこうだ。

➀とりあえず皆の気を引く。ホラ貝でも吹く。
➁太鼓。できれば裸の男性に叩かせる。おばあちゃんに叩かせてもよい。
➂誰も聴いたことのない民族楽器を使う。この場合は髭のおじいちゃんのほうがよい。でっち上げても誰もわからない。
➃バイオリンを使う。バイオリンは勝つ。
➄よりモダンな路線で行きたければDJにスクラッチするフリをさせる。
➅記憶に残る衣装を着る。
➆愛か平和についての歌を歌う。ABBAは戦争についての歌を歌って優勝したけど、これはおすすめしない。
(その他:ピアノを燃やす、ローラースケートを履かせたロシア人を登場させる、回し車で人を走らせるetc.)

これだけでも、映画に使える面白おかしな特徴が満載であることが分かるだろう。実際は映画の中でウィル・フェレルレイチェル・マクアダムス演じるラーズ&シグリットやデミ・ロヴァート演じるカティアナが歌っていたような、圧倒的歌唱力を見せつけるようなバラードやユーロポップが多い印象があるが、このカオスさが愛されているのだ。

しかし、この中で映画に反映されていたのは、ダン・スティーヴンス演じるロシア代表が従えていた「裸の男性」たち(太鼓はなし)と、➅と➆くらいだ。

英ガーディアンのレビューがこの映画について私の言いたかったことを先に言ってくれているので紹介したい。

Ferrell’s fame, Americanness and straightness mean that the film, in aiming for a mainstream comedy audience, misses the boat on campness.
ウィル・フェレルの著名さ、アメリカ人らしさ、ストレートさが、メインストリームのコメディを目指す上で、「キャンプさ」を取り入れる妨げになっている。

Campという言葉はいささか説明が難しいが、昨年ニューヨークのファッションの祭典「メットガラ」のテーマに採用されたことで話題になった。(参考)LGBTQと結び付けられることも多いこのcamp要素を多分に含み、ドラッグクイーンのオーストリア代表コンチータ・ヴルストやイスラム教徒でもあるフランス代表ビラル・ハッサニといったアイコニックなLGBTQパフォーマーを輩出してきたユーロビジョンをせっかく題材にするのに、主人公2人はヘテロなのだ。幼なじみのこの2人がくっつくのか?くっつかないのか?というのがこの映画のサブプロットで、「2人は兄妹?」「違う違う」というギャグ(?)が繰り返し劇中で使われるのを、ガーディアンの筆者は「なぜか近親相姦を仄めかせばホモセクシャルカップルにしないことの埋め合わせになると思っている」と痛烈に批判している。

出場者皆が集まって前夜祭的に一緒に歌う場面では、実際に近年ユーロビジョンに出場したアーティストが多数出演した。その中には前述の二人を含むLGBTQアーティストもいたものの、あくまで大勢のなかの一人にすぎなかった。コンテスト本番で歌うシーンがあった出場者のうち、「明確に」クィア性が押し出された人はいなかった(ダン・スティーヴンスのキャラクター設定は、ロシアへの風刺が効いていてよかった)。

もう一つ映画が大きくスポットを当てなかったユーロビジョンの重要ポイントが、民俗音楽だ。アイスランドの小さな村から出場するという設定の主人公たちは、村のパブで連夜歌を披露している。自分たちの曲を歌いたいのに、村人が愛する、ポップソングがヒットしすぎて半分民謡になったような曲『Jaja Ding Dong(ヤーヤーディンドン)』を毎回歌わされる。これは良かったのだが、肝心のコンテストでは、こうした地域特有の文化を取り入れたパフォーマーがほとんどいなかったのだ(ダン・スティーヴンスの曲はロシア代表なのになぜかラテンテイストだった)。

(話が逸れるがエンディングで急にまったくテイストの違うアイスランドのバンドSigur Rosの曲が使われたのは何だったのだろうか。非アイスランド人ばかりにアイスランド人を演じさせた埋め合わせだろうか。)

(↑2012年に出場しウドムルト語で歌い準優勝したロシア代表「ブラン村のおばあちゃんたち」は大変話題になった)

きちんとクライマックスに取り入れられていた要素もある。主人公たちはいつもは英語で歌っていたのだが、シグリットが密かに自分で書いていた曲を決勝で歌うことにし、サビでアイスランド語を披露する(本番の歌声はレイチェル・マクアダムスではなくスウェーデン人歌手のモリー・サンデーン)。テレビでその様子を観ていた故郷の村人たちは、「アイスランド語で歌ってる!!」と歓喜するのだ。

より多くの人が理解する英語で歌うのか?自国語で歌うのか?というのは例年多くのアーティストが悩む問題で、現在は参加者の自由となっているが、一律自国の公用語に制限されたり、英語に制限されたりとルールが変更されてきた歴史がある。

ちなみに、もともと英語で、ほかのどの参加国よりも世界的なアーティストを輩出してきたであろうイギリスは、嫌われ者的ポジションにあると言っていい。近年ことごとくコケており、私が昔ファンだったボーイズグループのBlueが2011年にイギリス代表になった時は「やめてぇぇ」と悲鳴を上げたものだ。個人的には、イギリスをおちょくるシーンがあったら最高のギャグになったのにと思う。

(↑「何で皆イギリスが嫌いかわかったね」「誰よりもイギリス人が一番イギリス代表を嫌っている」などとコメントがついてしまっている悪名高き2007年イギリス代表)

この映画は、ユーロビジョンの魅力を伝えるというより、一組の出場者を軸にしたいつものおバカコメディにユーロビジョンをちょっと取り入れた、愉快な歌満載の作品だと思えば満足度が上がる。いや、最初からそう思っていた人が大半か。さんざんユーロビジョンを語ったが、私はそこまで熱烈なファンだった訳ではない。今回の映画を観て改めてユーロビジョンの魅力に気付き、どうしてもこれをきちんと伝えねば!という謎の衝動に駆られてしまった。気付きを与えてくれた映画に感謝したい。

 

 

マイノリティ表象や性的搾取について考えるための配信系コンテンツ6選+1

色々排他的な言説を目にして怒っていたが、意見すべきところに意見してなお余った怒りを消化しようと、マイノリティ表象や性的搾取についてわりとド直球に考えさせる配信系コンテンツの紹介を一気に書いた。

AppleTV+は作品数が少ないのでまだ人気がないけど、オリジナルコンテンツのクオリティがとても高いのでもっと観られて良いと思う。Apple製品を最近買った人は大体一年間無料、そうじゃない人もオリジナルコンテンツはすべて1話または2話だけ無料で観られる。

※ネタバレ注意

ザ・モーニングショー(The Morning Show)

 

Apple TV+

特殊メイクでカズ・ヒロさんがオスカーを受賞したのも記憶に新しい『スキャンダル(Bombshell)』は、実話に基づいてかなり淡白にテレビ局幹部のmetooスキャンダルを描いた。こちらはそれにエンタメ性も詰め込んだような、ニュース番組の看板キャスターの失脚とその後。

中心人物は、性暴行で複数の女性に訴えられてもいつまでも合意の上だと言い張る男性キャスターのミッチ、長年ミッチと一緒に番組の顔を務めてきた女性キャスターのアレックス、ミッチの後任に急遽指名される女性レポーターのブラッドリー。正義感を持って真実を追求しようとするが男社会の中で常に叫ぶように正しさを訴えねばならず、あげくモンスター扱いされてきたブラッドリーは、最近フェミニストから再注目されている田嶋陽子を思い出させる。

ほかにも、訴えたり代わりに昇進を受け入れたりとそれぞれの決断をする被害女性たち、事件を揉み潰してきた局の幹部、見てみぬフリをしていた周りの番組スタッフ、ミッチと不倫関係にあったスタッフ、自分たちの関係もバレたら糾弾されるのではと思い悩む番組内の歳の差カップル、ミッチが「モンスターはこいつであって自分とは違う」と卑下する未成年を性的搾取してきた映画監督など、metooをめぐるあらゆる立場の人が描かれる。

ジェニファー・アニストンはアレックス役で全米映画俳優組合賞を受賞している。

テレビが見たLGBTQ(Visible: Out on Television)

 

Apple TV+

アメリカのテレビでどのように性的マイノリティが描かれてきたか、各時代のクリエーターや出演者の話を交えてものすごく網羅的に振り返る。同性愛が違法とされていた時代の番組から、ドラマで初めて登場人物がカミングアウトした瞬間はもちろん、Glee、Grey's Anatomy(後述)、Empire(後述)、Billions、THE WIREQueer as Folk、Queer Eye for the Straight Guy、RuPaul's Drag Raceなど思いつく限りの近年のドラマやリアリティ番組が紹介される。

特に人気司会者のエレン・デジェネレスが主演していたコメディドラマで(役柄の上でも本人としても)カミングアウトしたときの経緯を改めて知ると、彼女がいかにLGBTQコミュ二ティの中で大きな存在かがわかる。今でこそブッシュ元大統領と会っているところを激写されたり、人のプライベートを詮索するようなインタビューをしたり、すぐに人を性的オブジェクト化して見ようとしたり、アジア人への偏見が隠しきれなかったりして批判されることも多いエレンだが、彼女もカミングアウト後一度は雲隠れせざるを得なかった過去を考えると、(語弊はあるが)そんな醜聞ですら感慨深い。

ちなみにドラマの中でエレンが愛を告白した相手は、先日『マリッジ・ストーリー』での演技で賞レースを総ナメしたローラ・ダーン。彼女も番組出演後しばらく仕事を干されていたらしい。

マスター・オブ・ゼロ(Master Of None)

 

Netflix

インドからの移民の息子であるアジズ・アンサリが主演し、台湾からの移民を両親に持つアラン・ヤンと共同で製作を務める、マイノリティ表象をかなり意識したコメディドラマ。ニューヨークの小洒落た風景やインテリア、グルメ好きが撮っていると分かる多国籍なフードの数々、センス抜群の音楽が心地よく(New Editionに惚れ直す)、アメリカのマイノリティの日常生活にスッと誘ってくれる。

S1E2『Parents』では、アジズ演じるDevと台湾系の友人ブライアンがそれぞれの両親にアメリカに来たいきさつを改めて尋ねてみる。アジズの実の両親がそのままのインド訛りで両親役を演じ、まるで本当に友人の両親の話を聞いているような気分になる。アメリカに来てからの数々の苦労話は、彼らの実話を基にしているという。

メインキャラをほとんど登場させずニューヨークの市井の人々の日常をただただ描いたS2E6『New York, I Love You』では、聾唖者の夫婦が手話で性生活について話し合い、ドアマンが入居者に振り回され、タクシー運転手たちが夜遊びを楽しむ。

毎年の感謝祭を通してレズビアンの娘と母の20年余りを描いたS2E8『Thanksgiving』のきめ細やかさは特に秀逸だ。Devの幼馴染のデニースを演じたリナ・ウェイスは、自身の母親へのカミングアウトの経験をもとにこの回の脚本を書いた。デニースの部屋に貼ってあったジェニファー・アニストンのポスターも、ダイナーでのカミングアウトも、恥ずかしいインスタグラムのアカウント名を持つガールフレンドも実話だという。アジズはアラン・ヤンと脚本を書いた『Parents』に続いて、リナと書いたこのエピソードの脚本でエミー賞を勝ち取った。

前述のエピソードほど社会的な色はないが、Devが彼女とデートでテネシー州ナッシュビル(カントリー音楽とチキンの街)に行き肉を食べまくるS1E6『Nashville』はひたすらかわいい。そしてS1E10では、彼女との結婚に悩むDevが妄想シーンの中で見せる結婚観に首をブンブン振って頷いてしまう。

“普通の”生活を送るためにこの時代遅れな可能性のある慣習に従って彼女をパートナーとしますか?運命の相手を探す理想の道を諦めて先に進むために彼女とうまくやっていく努力をする準備はできていますかーー。

このドラマは、アジア系アメリカ人レズビアンといったマイノリティの物語であり、等身大のアラサーの物語でもある。

最終話のS2E10では、Devにテレビ番組の司会の仕事をくれたプロデューサーがセクハラで告発され、Devも無職になる。皮肉なことにその脚本を書いたはずのアジズがmetoo問題で告発されたため、この番組もそのまま打ち切り状態に。アジズはハリウッドにいられなくなり諸外国を放浪、日本にも数カ月住んでいたらしい。2019年にNetflixのスタンダップスペシャルで事実上“復活”しているが、この後メインストリームに戻るのかはまだ分からない。

アジズへの告発についてはここでも紹介されているが(この記事のトーンにはまだ同意できない)、ここまでくると正直もう何が白で何が黒なのか、一読しただけでは判断できない。少なくとも、Netflixスペシャルでの復活はこうしたmetooの危うさや真の“同意”について真摯な意見を交わせる機会だったが、アジズはそれをせずにひとまず低い姿勢をとることで、復活すること自体を優先させたように思う。

ハンナ・ギャズビーのナネット(Hannah Gadsby: Nanette)

 

Netflix

オーストラリアの離島で育ったレズビアンで、ADHD自閉症の診断を受けたスタンダップ・コメディアンのハンナ・ギャズビー。政治も下ネタもすべて笑いに変えるスタンダップのイメージとは一線を画した怒りの込もったパフォーマンスで、彼女の生きづらさが痛いほど伝わってくる。

よく「怒っていたら対話はできない」という人がいるけれど、そういう人にはまず人の怒りを受け止めることを覚えてほしい。

美術史を専攻していたという面もある彼女が西洋美術史ピカソゴーギャン)を糾弾するのを見て、私は「作品に罪はない」とは言えなくなった。

Empire/エンパイア 成功の代償

各種有料レンタルのみ

上述の小洒落た今風の作品たちとは違って、愛憎!金!権力争い!裏切り!ショービズ!と迫力押しの音楽ドラマ。大手レコード会社を1代で築いた伝説的ラッパー・ルシウスの3人の息子の後継者問題がメイン。

次男のジャマルシンガー・ソングライターとしての才能を持ちながら、ゲイであることで父親から蔑まれる。先述のApple TV+『テレビが見たLGBTQ』では、幼い頃にハイヒールを履いて遊んでいたジャマルがルシウスから暴行を受けゴミ箱に放り込まれるという衝撃的なシーンが紹介されている。

ジャマル役のジャシー・スモレットは、S5の撮影途中だった2019年に自身への暴行(ヘイトクライム)を偽装するという前代未聞の事件で逮捕。一度は不起訴になったものの、検察側の公正さが問題視され今年に入って再度起訴された。

グレイズ・アナトミー(Grey's Anatomy)

 

S13まではprime videohuluで見放題、それ以降はレンタルなど
ドラマが面白いのは前半だが社会的側面が強くなるのは後半

基本的には医者が所構わずイチャイチャしている医療メロドラマ。手術室や緊急外来での臨場感もさることながら、一番注目に値するのはあらゆる時事問題を取り込みあらゆる属性の人を登場させようという意気込みだ。

L、G、B、Tの医者も患者も登場し、トランス男性の医者はトランス男性の俳優が演じる。「私の代名詞はtheyです」と言う患者に戸惑う初老の黒人の医者もいれば、「伝えてくれてありがとう」とすんなり受け入れる若い医者、ヒジャブを被った医者、たった一回の信号無視で永住権を奪われ国外退去を余儀なくされるラテン系移民の医者、PTSDに苦しむ元軍医もいる。

同性カップルの結婚も離婚も親権争いも描けば、主人公はアフリカから養女を迎え入れるわ、高すぎる保険料のせいで手術代が払えない患者のために保険金詐欺を働くわ、その結果科せられた社会奉仕活動で出会った無保険の女性たちにその場で診療を始めるわ。アーミッシュの両親が子どもへの治療を拒否する場面や、性暴行を受けた患者にレイプキットを使用する手順を事細かに描く回もある。

肝心のドラマはドロドロのグチャグチャになりすぎて視聴者もいい加減離れてきているが(医者たち避妊しなさすぎ)、この果敢な姿勢に毎回勇気付けられる。

Superstore ※番外編

 

※日本未上陸 NBCの公式サイトで(アメリカにいれば)観られる(英語字幕あり)

ビジネススクールを出ていながら色々失敗して大手スーパーの店員になったジョナ。たいてい彼より学歴の低いほかの従業員たちに、意識高い系のジョナが根気強く啓蒙し、職場環境を改善しようとしたり、労働組合を作ろうとしたりと奮闘する。基本的にみんながアホすぎることによって笑えるコメディなので、そのアホさと扱うトピックの真面目さのギャップがすごい。

避妊薬を薬局コーナーからなくすためにすべて買い上げようとするクリスチャンの店長、トランス女性を女子トイレに入れるなとスーパーの前で抗議し始める女性客、永住権を持っていなかったことをある日突然親から知らされ強制送還されてしまうフィリピン系のスタッフ、人員不足で出産直後から働かされボロボロのフロアマネージャー…。

ハロウィンエピソードでは、仮装コンテストに勝ちたいスタッフが、白人スタッフのラスタやアラジンなど他の人の仮装を片っ端から「文化盗用だ」と言ってやめさせる。しまいにはスーパーマリオも「イタリア人に失礼だ」と言われる始末。

フェミニズムがテーマの回では、女性がCEOの会社にスーパーを買収されて脅威を感じる男性陣に「フェミニズムが存在するということは何かを奪われることとイコールではない」とジョナが説く場面で思わず拍手を送った。

 

Cultural Representationについてつらつら考える

*English follows

「ホワイトウォッシュ」という言葉は一部の人にのみ知られている言葉かと思っていたが、ここ何年かでかなり市民権を得たようだ。とりわけそれを実感したのは『リトル・マーメイド』実写化キャスティングのニュースだった。

ただこれは大坂なおみ選手のCMのときのような「ホワイトウォッシュ」問題ではない。アニメでは白人に見えたアリエルを黒人女優が演じるというニュースに、「それはブラックウォッシュでは」「いやブラックペイントというのでは」「ティアナやポカホンタスやムーランを白人が演じたら怒るくせに、逆差別だ」といったコメントが並び、私は頭を抱えてしまった。要は、表面的な横文字言葉が輸入されただけで、その背景や文脈はまだまだ理解されていなかったのだ。

今回の件で改めてエンタメ作品におけるcultural representationを考えて得たことがあるとすれば、この問題はケースによって様々な背景の違いがあること、わかりやすく白黒付けられるものではないということ、社会的な視点と個人の立場による見方の違いを切り離すのは意外と難しいということだ。

リトルマーメイドはファンタジーだが、アリエルを黒人が演じるなら、その父であるトリトン王も黒人でないとおかしいのか。そもそも人魚の肌の色はどのように遺伝するのか。

アラジンのジャスミン役はインド系のナオミ・スコットが選ばれたことで批判されたが、候補と報道されたイエメンとエジプトの血を引くリトル・ミックスのジェイド・サルウォールなら同じイギリス育ちでも良かったのか。アラブ系の血が入っていても肌が白人と変わらなかったらどうなのか。

LGBTのキャラクターは当事者が演じるべきなのか。それが当たり前になってしまったら、カミングアウトできない俳優はチャンスを得られないことになるのに。

 

原作では日本人(名のサイボーグ)だったキャラクターを白人が演じて批判された映画に『ゴースト・イン・ザ・シェル』(原作:攻殻機動隊)がある。私は原作を知らないので特に思い入れはないが、日本人あるいは日系の女優主演でこの作品が作られていたら、ハリウッドで自国の文化がrepresentされる誇らしさをより感じることができたのにとは思う。

そして配信時にこれと比較されたのが、NetflixサイバーパンクSFドラマ『オルタード・カーボン』だ。この未来の設定がまたややこしい。人間の精神はデジタル化され、体内のスタックと呼ばれる装置にバックアップされる。精神をスリーヴと呼ばれる別の肉体(ほかの人の肉体から精神を抜いたものも、人工的なものもある)に転送すれば、自身が生まれ持った肉体は死んでも、精神は生き続けることができる。スリーヴはお金を積まないと購入や選択ができないので、本来の民族や性別と違う肉体に転送されることは珍しくない。 かといって、誰も属性や見た目を全く気にしなくなるほど遠い未来の話ではない。

日本人と東欧人の血を引く主人公のタケシ・コヴァッチは、250年の「保存刑」(スタックのみで拘留されること)の後、白人(ジョエル・キナマン)の体で目が覚める。つまり、精神は日系人だが、見た目はキナマンだ。劇中では、タケシが生まれ持った肉体(ウィル・ユン・リー)で生きている時代、その次に自身が選んだスリーヴ(バイロン・マン)の時代のフラッシュバックもあるが、基本的にはキナマンがメインで話が進む。ちなみに、リーもマンも顔立ちはアジア人だが、日系ではない。

スリーヴの設定はもちろんストーリー展開にも活かされるし、主人公が白人であることの説明は付く。ましてや半分東欧人なのだから、そんな設定がなくても白人の顔立ちをしていてもおかしくないと言われればそうだ。ただ、少なくとも今回のドラマでははっきりとリーがタケシの本来の姿であると示されており、その次にもアジア系のスリーヴを選んでいることから、タケシが自分の見た目のアイデンティティをアジア系と紐づけていることがわかる。さらに原作小説では、タケシが白人の体を持つことの違和感を度々語るという。ドラマではそれがほとんどないどころか、ナレーションはリーではなくキナマンの声で行われる。

私は初めてこの作品を観たときからモヤモヤが治まらなかった。作品の知名度や日本人にあまりこの手の問題意識がないことが影響してか、日本語で意見している人がほとんどいなかったせいもある。(面白かったという感想はたくさんあったし私も充分楽しんだ。ヌードや暴力描写の問題は置いておく…。)後から下記のツイート等を読んで、要はこの設定は「知的でエキゾチックなアジア人のバックグラウンドと名前」と「マッチョでカッコいい白人の見た目」を組み合わせてサイバーパンク的にカッコいい主人公を作るための、”都合の良い言い訳”のように感じていたのだと気付いた。(スリーヴの設定とタケシの設定どちらが最初に作られたかという問題ではない)

原作は未読だが、調べると、タケシ以外の登場人物の設定や扱いはいくつか変えられていることが分かった。タケシの行動に目を光らせるメキシコ系のクリスティン・オルテガ警部補(マルタ・イガレーダ)は、小説ではタケシの視点でしか描かれないというが、ドラマでは単独シーンも多々ある重要人物になっている。小説では他人で、原作者はサンドラ・ブロックをイメージしていたというレイリーン・カワハラ(ディーチェン・ラックマン)は、ドラマではタケシの妹という設定になり、後半の中心人物となる。ラックマンはチベットやネパールの血を引くオーストラリア人女優だ。重要人物の一人で小説では白人と記述されているリジー・エリオットは、黒人のヘイリー・ローが演じている。タケシを取り巻く女性陣は有色人種ばかりなのだ。小説の設定には何のこだわりもないしドラマ版はそれぞれ魅力的なキャラクターだったので、こうした変更自体には何の異議もないが、これを「多様性に富んでいる」と称賛するレビューは素直に受け入れられなかった。どうも、タケシを白人にしていることへの埋め合わせのように感じてしまったからだ。

オルタード・カーボンはシーズン2の配信が決まっており、今度はタケシは黒人のスリーヴ(アンソニー・マッキー)に転送されることが分かっている。「マッチョでカッコいい」だけではない、彼ならではのタケシを演じてくれたらいいなと思う。

 

I didn’t think the term “whitewash” was this common in Japan until recently, when the news about the casting for the live action film of Disney’s Little Mermaid provoked controvercy. Some of the hideous tweets I read were “That’s blackwash”, “No that’s blackpaint”, “Why would you do this when you know people would be angry if you made Tiana, Pocahontas, or Muran white”. I felt dizzy.

As much as I was disappointed in Japanese people's ignorance of racial issues, this was a good opportunity to think about cultural representation, which we rarely do. And, in conclusion, it can be too complex to reach a single answer. This can’t be just black and white. And it is rather difficult to separate the social aspects of this issue from one’s personal preferences and feelings.

Little Mermaid is a fantasy. But if Ariel is black, should King Triton also be black? Wait, how would mermaids’ skin colour be inherited in the first place?

The casting of Naomi Scott as Jasmine in Aladdin was criticised as she had Indian heritage, but how much Arabic heritage would be enough? What if Jade from Little Mix had whiter skin?

Should LGBT characters be played by LGBT actors? But if that became common sense, what about the actors who decided not to come out?

In the film Ghost In the Shell, Scarlett Johansson played the lead who was originally a “Japanese” cyborg. I’d never watched the original anime or read the manga so I didn’t have much opinion about it at first. But now I think about how it’d have been really cool if the lead was played by a Japanese actor. I can’t recall a single Japanese lead actor in a Hollywood film. Maybe just the war film by Clint Eastwood. That Geisha wasn’t Japanese. By the way, the Japanese anime fans or the creators didn’t seem to really care either. Most of them think it’s natural that a white actor plays the lead in a Hollywood film. And she’s a cyborg anyway.

Then came Netflix’s Altered Carbon. This is another level of complicated. A person's memories and consciousness can be stored in a device called stack. Stacks can be transferred to other people’s bodies or synthetic ones, which are both called sleeves, so theoretically your mind can live forever if you keep transferring. Sleeves are expensive and you can’t choose which one to use unless you pay, so it is common to be resurrected in a body of a totally different ethnic background or a gender from your original one. Still, it’s not like people don’t care about their ethnicities or how they look. It’s not that far in the future. Or there would never be times like that.

Takeshi Kovacs, the lead character who has Japanese and East European heritage, is resurrected in the body of a white man (Joel Kinnaman) after inprisoned without a sleeve for 250 years. So he is (biracial) Japanese in his mind, but looks like Kinnaman. There are flashbacks of the time when Takeshi lived in the original body (Will Yun Lee) and also the time when he lived in the sleeve (Byron Mann) he chose himself, but the main actor is Kinnaman. By the way, Lee and Mann are both Asian but neither of them are Japanese.

This re-sleeving thing is of course integrated in the story, and it does explain why Takeshi is white. He is half East European anyway so he could look white in the first place. However, at least in the show, it is shown that Lee is who Takeshi originally looks like, and they indicate that he identifies his look as Asian man by letting him choose Mann as his next sleeve. In addition, I found out that in the book, Takeshi frequently discusses the difference between his ethnic identity and his body, which the show never really did. And the narration wasn’t even Lee’s voice, it was Kinnaman’s.

This never felt right to me. There wasn’t a single Japanese conversation about this I could find online, as this series wasn’t well known enough or people in Japan didn’t care much about these issues. (There were many people saying they enjoyed the show and I did too.) So I read English articles and tweets. I realised that it felt like this setting was a convenient excuse to make a cool cyberpunk protagonist with both “intellectual and exotic Asian background and a name” and “White hunk look”. (It’s not a matter of which came first, the sleeve thing or Takeshi’s ethnicity.)

I haven’t read the book but I also found out that some of the other characters are significantly changed. Reileen Kawahara (Dichen Lachman), whom the author of the book apparently said he’d imagined to be played by Sandra Bullock, wasn’t even Takeshi’s sister in the book. She became one of the main characters in the second half of the show, played by Lachman who has Tibetan and Nepalese heritage. Lizzy Elliot, who was originally described white in the book, was played by a black actor Hayley Law. I had no attachment to the settings of the book, and these characters were amazing in the show so I have no objections to these changes themselves. Yet I couldn’t fully agree to the article which praised the show’s diversity. These changes, after all, just made me think that the creators wanted to make up for whitewashing Takeshi.

The show has its next season coming up soon, and Takeshi will be played by Anthony Mackie which means he'll be black this time. I hope he’ll portray Takeshi in his own way, not just as a black hunk.

ゆとり世代だろうがなんだろうが、いつかは大人になるという話

※ドラマ『Girls』についてネタバレがあります

 大好きな曲があって、その歌詞の意味や背負っている文化的背景などを改めて知ったとき、自分の経験や感覚との距離を感じて愕然とすることが、たまにある。

 Tracy Chapmanの「Fast Car」は、物心ついたときには、FMで定期的に流れる懐メロのようになっていた。英語を理解するようになってから、その歌詞が持つ重みに衝撃を受けた。なんとなくみんなのお気に入りだと思っていた曲は、私よりずっと大変な境遇にありながら、少しずつ思い描いていた未来に近づこうとする、すごく強い人のために書かれたもののような気がした。

 だから、それがドラマ『Girls』の最終話で使われているのを観て、最初は違和感を感じた。ものすごく乱暴に説明すれば、アメリカ版『ゆとりですがなにか』のようなこのドラマは、『Gossip Girl』(思春期)と『Sex And The City』(成人期)の狭間の世代、ミレニアルを描いている。4人の女子は、みんなどこか幼稚で甘ったれで、それでいて目上の人が相手でも自分を正当化できる(あるいはできてなくても勢いでその場を押し切れる)ほど弁が立つ。そんなんだから激しく言い争うこともしょっちゅうで、それでもなんだかんだ友達であり続ける、のではない。途中まではそうだけれど、最終シーズンは驚くほど急展開で、それまでも段々と離れていた4人の距離を方方に伸ばし、視聴者を置いてけぼりにしながら、主人公のハンナにフォーカスしていく。

 4人が離れる原因となる出来事の一つが、ハンナの妊娠だ。ニューヨークを離れて郊外で教職に就き、シングルマザーとなったハンナの元には、親友のマーニーだけが半ば無理矢理ついてくる。ダメダメだったハンナは、母になって大人になったかと思いきや、相変わらずな口論をマーニーや子育てを手伝いに来た自分の母親と続ける。Fast Carは、最終話の冒頭、ラジオに合わせてマーニーが歌い出す場面で最初に使われる。息子が母乳を直接飲んでくれないことに悩んでいたハンナは、イライラを募らせて半ギレする。

 その後、若い頃の自分のような、より自己中で甘ったれた家出少女に出会ったことで、ハンナは思いがけず”母親の愛”について語る。最後は、ハンナがFast Carを口ずさみながら、無事に息子に授乳するシーンで終わる。

 少しずつキャリアを切り開いてきたとはいえ、まだまだ甘やかされたゆとり女子に見えたハンナと、ヤク中の元夫にすら超自己中な性格を批判されるマーニー。そんな二人がFast Carを歌う構図は、なんだか曲の意味を軽くしてしまっているように思えた。

 番組の音楽担当者の話では、Taylor SwiftやLordeの新曲を使えばそれっぽかったかもしれないけれど、それでは曲がストーリーの重みに耐えられないと判断し、以前から使いたいと考えていたFast Carに白羽の矢を立てたそうだ。Chapmanは基本的に映像作品には曲を提供しない人らしく、この曲の使用許可を取るために、もはやフェミニストのアイコンのようになっているこのドラマの製作・監督・脚本・主演のLena Dunhamが自ら電話で依頼したという。この曲が使われていること自体が、すごいことなのだ。そこで、彼女が何といって説得したのかはわからないけれど、そこには、Chapmanも納得するに足るストーリーがあったのだ。

 妊娠・出産というきっかけは半ば強制的でベタではあるけれど、ハンナは大人になる。Fast Carの主人公とは違って、呑んだくれて働かない親父や亭主はいないけれど、彼女なりに着実に階段を上って、人生の次のステージへと進んでいく。

 そこまで考えて、気づいた。

 少し年下で、自己中で諍いの絶えない彼女たちを、私はいつもどこか下に見ていた。けれどもいつの間にか、少なくともハンナには、追い越されていたのだ。

 否応なしに環境の変化を迫られる出来事はないけれど、私もいつまでも若者でいるわけにはいかない。そういう普遍性を、Chapmanは歌っていたのだ。

「過保護のカホコ」に発達障害のレッテルを貼ることはつまらないことなのか

 「過保護のカホコ」(日テレ)を観た。遊川和彦さん脚本のドラマは、「家政婦のミタ」と「女王の教室」を観ていて、どちらも主人公のキャラはちょっと行き過ぎじゃないかと思ったけど、そのおかげでどんどん引き込まれる展開があって、最後は温かい終わり方で、好きだった。

 高畑充希演じるカホコは、まず松嶋菜々子演じる家政婦のミタさんや天海祐希演じる女王マヤのようにおっかなくない。世間知らず過ぎるところがちょっともどかしいけれど、可愛さでそれを吹き飛ばすほのぼのキャラなんだな、と思って、なんだか先の2つのドラマとの対比もあって安心して観ていた。が、途中で何度か、やっぱりかなり攻めてくるなーと思うくらいのオドオドぶりがあった。あまりに挙動不審で、好きか嫌いかというよりは、ただただびっくりして、さすが遊川脚本だ、熱演だなと思った。

 ちょっとほかの人の感想が気になって、ツイッターの検索窓に「過保護のカホコ」と入れてみたら、なんと連想キーワードに「障害」と出てきた。なるほど、私も詳しくないので実際の特徴がどうかはさておき、そういうふうに考える人がいてもおかしくないかも、と思った。検索結果をスクロールしていくと、ツイートは「発達障害じゃね」と決めつけまたは疑問を呈して終わっているもの、「過剰すぎてイライラする」とまで言っているもの、「障害でなく後天的なものだと思う」と分析しているもの、「可愛いのに障害とか言っててひどい」、「ちょっと人と違うとすぐ障害とかいう人がいて嫌だ」、「高畑充希演技上手すぎる」といったものなど、スタンスとしては多様だった。

 ここで思い出したのが、アメリカのコメディドラマ(いわゆるシットコム)の「The Big Bang Theory(邦題:ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則)」に出てくるシェルドンというキャラクターだった。ビッグバンセオリーは、大学に勤める学者でマンガやゲームやコスプレが大好きなオタクでもある4人組の男子と、アパートの向かいの部屋に越してきた美女の話だ。観たことのある人なら分かると思うが、彼はその4人の中でもものすごくクセのある人物で、16歳で博士号を取得するほどの天才でありながら、特定のルーティンに沿って暮らさないと気が済まない(曜日ごとに何を食べるか決まっている、家では必ずソファの同じ位置に座る、病気の時は「柔らか子猫」の歌を歌ってもらわないと寝られないなど)、一度やり出したことは終わるまでやらないと気が済まない、人の感情に寄り添えない、潔癖症であるなど、数々の特徴を持っている。それはそれは周りの人をイライラさせるし、友人たちも普段はうまく彼の習性に付き合いながらからかったり、たまにブチ切れたりするのだけど、このキャラクターは人気もすごい。演じるジム・パーソンズのギャラは1話1億円だそうで、彼はこの役で4度のエミー賞も獲っている。

 で、なぜシェルドンを思い出したかと言うと、以前、彼は発達障害なのか?という疑問がファンの間で盛んに議論されていたからだ。実際にドラマの制作側はこの疑問に回答していて、それは、シェルドンには特定のラベルを与えていないというものだった。つまり、番組としては発達障害ではないとしている。

 その理由として制作側は、以下(一部)を挙げている

・シェルドンが実際に病気に悩まされているとしたら、友人たちがこれまでのように彼をからかえなくなるということ。
発達障害の設定にすることで、シェルドンの行動に制限を持たせたくないということと、同時に(発達障害には「よくある傾向」はあるものの、皆一様ではないため)発達障害に特定のイメージを与えるのを避けたいということ。
発達障害と決めてしまうと、詳細を正しく描くためには執筆陣の負担が重くなってしまうこと。(アメリカのドラマはたいてい複数のライターがチームで脚本を書いている)

 あるアスペルガー当事者のブログでは、この回答に不満を表している。まずは発達障害を病気と呼んでいる点。そして、シェルドンをからかう友人たちのジョークはほぼすべてが発達障害の特徴に関するジョークであるにもかかわらず(それを面白いと思う人もいれば、不快に思う人もいる)、発達障害の設定を持たせてはジョークが言えないとすることは、発達障害をからかいたいけれどもそれを認めたくないと言っているように聞こえるということ。そして、発達障害が一様でないとするなら、なぜシェルドンの行動が制限されることを恐れるのかということ。ライターの負担については、これは正直な意見だとしながらも、詳細を気にしている時点で、発達障害を理解していないとしている。この記事のコメント欄には、すごく同意できるといったものから、ちょっと被害妄想過ぎではないか、言ってもコメディだし制作陣にそこまで理解を求めなくてもいいのではというものなど、主に当事者やその家族からのさまざまな意見が見られる。

 設定云々の話とは少しずれるが、シェルドンの描かれ方を歓迎している当事者の声は多いようだ。「Autism Speaks」*という自閉症当事者支援団体の職員で自身も自閉症である人の記事では、いかに自閉症当事者やその家族にシェルドンが人気かということが書かれている。シェルドンは、自閉症の設定ではないが、これだけユニークな性格でありながら自分を偽ることをせず、ありのままに生きている。それでいて、職や彼女を持ち、自立している姿が、希望になるというのだ。

 また、前述のブログへのコメントには、ドラマ内での友人たちのシェルドンとの付き合い方を賞賛するものもあった。シェルドンの特異な行動を笑いつつ、特徴を理解して彼の前ではどう振る舞えば良いのか互いにリマインドしつつ(彼のソファの定位置に座らない、食べ物を触らないなど)、ムカつくことがあってもなんだかんだ友だちとして気にかける。からかうことなんかは当人同士の関係性にもよるだろうけど、私から見ても、この友人たちはとても忍耐強くて友だち想いの良い人たちだと思う。

 これは、過保護のカホコでの麦野くん(竹内涼真)の対応と似ていて、カホコの不審な挙動にツッコミを入れつつ、ちゃんと理解しようとしているところがとても微笑ましい。人としてはとてもまっとうなんじゃないかと思うけれど、仮にカホコが発達障害の設定だった場合、どうなのか。シェルドンに関するコメントでも見かけたが、単純に、発達障害の登場人物がドラマに出てくることが少ない現状では、とたんにカホコが発達障害者代表のようになってしまい、制作側もそれを背負うことになるので、まっとうか否か以前に、かなりやりづらくなるのではないかと思う。

 問題は今のところ、そういう設定か否かというより、「発達障害じゃね」の後に続く言葉がなんなのかということじゃないかと思う。嘲笑するようなものはもちろん、そんなこと言うなんてひどいといったニュアンスのコメントも、当事者には不快なんじゃないだろうか。

 カホコに関するコメントで、正直だけれど、棘がなくて良いなと思ったものがあった。

 エンタメ作品として、単純に過激な演出に対して「やりすぎ」とか「重苦しい」と言われるのは仕方のないことだし、想定内のリスクだと思う。それで離れる視聴者は離れる。インパクトはだいぶ小さくなるだろうけど、障害に見えないくらいの過保護を演出することだってできたはずだ。発達障害について知識を深めようとか、フィクションでの発達障害の扱いについて議論を起こそうといった意図は、ビッグバンセオリーにも過保護のカホコにもなかったと思うけど、ビッグバンセオリーに関する議論を見ている限り、それは良い方向なんじゃないかと思う。現状のドラマはドラマとして楽しみつつ、今後主要人物に発達障害のキャラクターがいるドラマが作られるとしたら、どんな扱いだったら面白くなるのか、いろんな人の意見を聞いてみたい。

*Autism Speaksは当事者団体としてはかなり物議を醸しているよう。参考まで。(2019.8.8追記)