Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

思い出をレトロカルチャーにする作品たち

80年代くらいのロックやダンスミュージックが好きだ。マッチングアプリのプロフィールに好きなバンドを書けと言われたら、The SmithsとかThe Cureと書くと思う。そういう音楽を使った『The Perks of Being a Wallflower(ウォールフラワー)』や『Sing Street(シング・ストリート 未来へのうた)』は今でも好きな映画ベスト8くらいには入るし、『Guardians of the Galaxy(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー)』や『Stranger Things(ストレンジャー・シングス 未知の世界)』のサントラは擦り切れるくらい聴いている。

 

でも私は87年生まれなので、リアルタイムでそういう音楽を聴いていたわけではない。これはあくまでエセ懐古趣味だ。私が子どもの頃から聴いていたのは、HansonとかSavage GardenとかBSBとかSpice GirlsとかのアイドルやOasisとかBlurとかのBritpopで、80年代のバンドではない。覚えている一番古い流行りのポップスは幼稚園で皆が歌っていたチャゲアスのヤーヤーヤーだ。
 
私にとってレトロといえば80年代かそれ以前のことで、自分の生きる時代はそれには当てはまらないと思っていた。それが変わり始めたのは、私が聴いていたボーイバンドが"再結成"しだしたあたりだ。そういうのって、おじさんになってからもうひと稼ぎしようとやるもんじゃないの?と思ったが(いやいつどう活動してようと彼らの勝手なのだが)、よく考えると彼らもいい歳だった。
 
さらに決定的だったのが、ブルーノ・マーズとカーディ・Bの『Finesse(Remix)』だ。90年代カルチャーにオマージュを捧げたPVを見て、ああ、ついに私の幼少時代も懐古される対象になったのだ、と思った。
 
 
今年は映画でもそれをしみじみと感じることになった。83年生まれのジョナ・ヒルが監督した半自伝的作品『mid90s(ミッドナインティーズ)』だ。スケボー文化も90年代のヒップホップも私が当時好んで触れてきたものではないけれど、近くにあった。80年代を舞台にした作品とは違う感慨があるのだ。
 
 
トドメはドラマ『PEN15』(米Hulu)だった。同じ87年生まれのマヤ・アースキンとアナ・コンクルが描く2000年代前半の中学校生活は、あまりに痛々しい。後からwikiでcringe comedyという呼び方があることを知ったが、初めての生理でタンポンのデカさに慄いたり体毛の処理で大騒ぎしたりといった体の成長への戸惑い、何かと噂して酷いあだ名を付ける中学生の残酷さはどの年代でもあまり変わらないのだろう。
 
 
当時の思い出を呼び起こすだけでなく、それを取り巻くカルチャーは、もう完全に"レトロなもの"として描かれている。カラフルでスポーティーなファッション、スケルトンの固定電話、ダサいユーザー名でやり取りするAOLのメッセンジャーアメリカが舞台なのですべてが自分の通ってきたものではないけれど、当時教育テレビで見ていた海外ドラマではおなじみの光景だった。
 
B*Witched、マンディ・ムーア、*NSYNCS Club 7、Lit、K-Ci & JoJoといった音楽に至っては、もう流れる度に懐かしさで悶絶している。今でも根強い人気があり常に新しいファンも獲得しているであろう80年代のバンドたちと違い、この年代の特にこういう安っぽいポップはすっかり消え去ってしまった印象がある。TLCやDes'reeの名曲の使い所も完璧で、前よりよっぽど好きになった。
 
『Dash & Lily(ダッシュ&リリー)』の日本文化描写がひどいという話を先日書いたばかりだが、日系のマヤ・アースキン自身がクリエイターを務める本作は安心感がある。さすがに中学生になってもシルバニアファミリーで遊んではいなかったなとか、逆にまだこんなに性的なことに興味なかったぞというのはあるが、30代が子どもに混じって中学生を演じているという可笑しさにさえ慣れてしまえば名作だ。
 
同年代で似た文化的バックグラウンドを持つ優れたクリエイターが存在することは、それだけで心強いし、エンタメへの信頼感となる。2000年代後半、2010年代が"レトロ"になるのはいつだろうか、それを作品で体現するのは誰だろうかと今から楽しみにしている。

奴隷制度を終わらせることはできなかったが、奴隷制度を終わらせた戦争を始めた英雄

イーサン・ホーク肝入りのプロジェクトということで楽しみにしていた『The Good Lord Bird』(Showtime)。「狂人」として伝えられることが多いという奴隷制度廃止運動ジョン・ブラウンを、彼が“解放”した元奴隷の少年ヘンリーの視点で描く半フィクションだ。
 
 
7話完結のミニシリーズで、あまりに面白かったので途中でジェームズ・マクブライドの原作小説(とイーサン表紙の雑誌笑)を買った。まだドラマと照らし合わせてパラパラとめくった程度だが、かなり忠実に映像化した印象だ。
 

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そもそも私はこのジョン・ブラウンという人をまったく知らなかった。アメリカでも授業では教えないか、教えても無茶な戦いで身を滅ぼしたcrazyな人という一面しか伝えられないという。『The Magnificent Seven(マグニフィセント・セブン)』では元南軍兵士を演じたイーサンは、同作撮影監督のマウロ・フィオーレに「君はジョン・ブラウン役に合うと思う」とこの小説を勧められたのがきっかけで、彼の物語にのめり込んだらしい。
 
話はジョン・ブラウンが処刑されるところから始まり、ブラウンとフィクショナルキャラクターのヘンリーとの出会いへと遡る。奴隷とはいえ父親と共に床屋として働き、それなりに穏便な生活をしていたヘンリー。ある日客として来たブラウンがヘンリー親子の主人といきなり銃撃戦を繰り広げたことで父親を失い、責任を感じたブラウンはヘンリーを一行に引き入れる。その際名前をヘンリエッタと聞き間違えたため女の子と勘違いし、ヘンリーはそのまま女の子(あだ名オニオン)としてブラウン一味の仲間となる。
 
奴隷を解放し自らの元で面倒をみたと言えば聞こえはいいが、いきなり父親を殺され武装した男たちの所へ連れて行かれたのだから、オニオンにとってはとても状況が改善したとは言えない。自分には優しくしてくれるが時に奴隷制度擁護派を容赦なく殺すブラウンが怖くなり、オニオンは幾度となく脱走を試みる。どうしても白人救世主的な話になってしまうのではと懸念していたが、こんなオニオンの視点で描かれるので、そこは絶妙なバランスになっている。
 
高い志を持つが、過激で、無茶で、敬虔なキリスト教信者で、何かと長々と聖書を引用し、動物を愛するブラウン。おそらく本人はいたって真摯なのだがどこか滑稽に見えてしまう感じを、イーサンが熱演する。戦いの度に本当に大仰なスピーチをかますので、その迫力につい惹き込まれてしまう。そんなブラウンたちが本当は男の子であることすら見抜けない(道中で出会う黒人にはすぐバレる)オニオンを演じるのは、新人のジョシュア・ケイレブ・ジョンソン。最初は一歩引いた目線でありながら、次第にブラウンに傾倒していく。
 
『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』でイーサンの息子役を長年演じたエラー・コルトレーンも、出番は極めて少ないがブラウンの息子の一人サーモンとして出演し、毎回オープニングクレジットに名前が入っている。そしてイーサンの実の娘マヤ・ホークもブラウンの娘アニーとして第5話に登場し、オニオンの恋の相手となる。フレデリック・ダグラス(ダヴィード・ディグス)やハリエット・タブマン(ザイナブ・ジャー)といった、歴史上の英雄たちの登場も見どころだ。
 
絶妙なバランスではあるが、やはり奴隷解放運動の話で一番目立つのが白人で良いんだろうかというのは頭の片隅にずっとあった。しかし最終話でこの作品は、主役は誰なのか、この戦いは誰のためなのか、決して忘れてはいないというメッセージをそこかしこに入れてくる。さらに第3話を担当したダーネル・マーティン監督のインタビューを読んで、背筋が伸びた。
 
ジョン・ブラウンは自分の子どもたちも一緒に犠牲にしてまで奴隷解放運動に身を捧げた。献身のレベルが違う。

白人がトーマス・ジェファーソンその他のracist motherfuckersを崇拝するのをやめてジョン・ブラウンを救世主にするまで、BLMは白人にとって本当に重要な問題とならないだろう。
 
ジョン・ブラウンはcrazyではない。子どもを親から引き離して殺したり奴隷にしたり虐待する方がcrazyだ、ジョージ・フロイドの首を踏み付けるほうがcrazyだ」
 

女の体は女のもの

今年は妊娠・中絶を描いた映画を立て続けに観た。観たのはたまたまではあるが、この題材を扱った作品はとても多いらしい。中絶の権利が制限されてしまうかもしれない地域もあるのだから当然のことかもしれない。日本も産婦人科学会があれでは他人事ではない。
 
 
12月4日公開の『Portrait of a Lady on Fire(Portrait de la jeune fille en feu燃ゆる女の肖像)』は、それがメインテーマではないが、中絶シーンがある。主役2人のラブストーリーも絵画のように美しいのだが、私にはこちらの方がとても印象に残った。こんなにきれいな中絶シーンがあるだろうかと思った(時代的に手法が古いだろうことは別として)。この作品は全編を通して端役で男が出る以外は本当に女の世界で、妊娠していることもサラッと明かされ、相手の男性には一切触れられない。妊娠している本人がどうしたいかだけを訊かれ、その答えに黙って寄り添う。そのことがどれだけ心地良いか。
 
 
96年の作品だが、『Citizen Ruth』も良かった。妊娠したヤク中のルース(ローラ・ダーン)を巡り、pro life派とpro choice派が一大闘争になっていく。本人の希望はそっちのけで政治利用しようとする人たちの滑稽さを描くコメディだ。結末がああならなかったらルースにとってどうするのが正解だったのか、本当に難しいと思う。ローラ・ダーンがとにかく最高だ。
 
『USムービー・ホットサンド』トークイベントで宇多丸さんが勧めていて気になっていたのだが、アレクサンダー・ペイン監督の未成年性的搾取を告発するニュースで思い出したのがきっかけで観たので、ちょっと苦い気分は残った。

eiga.com

 

 
『Never Rarely Sometimes Always(※邦題追記:17歳の瞳に映る世界)』は、ティーンが親の同意なしに中絶してくれるクリニックのある街まで、従姉妹と2人で旅する様子を描く。妊娠・中絶を描いた作品は多いらしいと書いたのは、この作品が賞を獲った映画祭の関係者が、毎年数あるティーンの妊娠を扱った作品の中でもこれは光っていたと発言していたからだ(ベルリン国際映画祭銀熊賞を獲っているが、どの記事だったか忘れてしまったので誰の発言かは分からない)。
 
ここでも父親の役割はまったくなく、状況を知った従姉妹は無言で旅に付き添う。道中は徹底して淡々として世知辛く、ものすごくまともで丁寧なクリニックの対応と、2人の信頼関係に救われる。
 
 
『Unpregnant』(HBO Max)は、ティーンのロードトリップという設定は共有しながらも、『Never Rarely~』とは対極にあるベタな爽快青春エンタメムービーといった体の作品だ。直後に観るとカーチェイスシーンなどはもはやあまりにファンタジーすぎて笑ってしまうが、こういう観やすい作品でこのテーマを丁寧に描くことは重要だろう。
 
主人公を演じるのはヘイリー・ルー・リチャーソドンで、親友だったけどいつしかつるまなくなったはぐれ者役のバービー・フェレイラが旅のお供になる。ドラマ『Euphoriaユーフォリア)』では体型を気にしつつどんどん殻を破っていくキャットというキャラクターを見事に演じていたバービーが、ここではまた違う方向にはっちゃけた役にハマっている。
 
この作品では妊娠の経緯が語られていた。ヘイリー演じるヴェロニカの彼氏は行為中にコンドームが破れたことに気づいていたが、ビビらせたくなかったから言わなかったと言い訳する。ヴェロニカは「すぐ言ってくれたら緊急避妊薬が買えたのに!」と怒るのだが、全くその通りだ。先日別のドラマでも、男性が途中でコンドームを外し「気にしないと思って」とそのことを女性に訊かれるまで言わなかった場面があった。これはステルシングといって立派なレイプだということをその作品で学んだ。
 
ベタな青春映画らしく、道中では都合よくロマンチックな出会いもあるのだが、この相手の女性がめちゃくちゃかっこいい。誰かと思えば歌手のBetty Whoだった。『Breaking Bad(ブレイキング・バッド)』のジャンカルロ・エスポジートも出てきて、(私が知る限り)珍しく良い人を演じる。
 
ジョークのちょっと狙いすぎた感じが面白くなくなるスレスレで、若干冷めた目で観ていたところもあったのだが、クソな奴はきちんと成敗するし、大事なところではちゃんと大人が守ってくれる安心感が良かった。
 
アメリカでは宗教も絡んでいてよりセンシティブな題材なので、もちろん反発もある。Unpregnantの予告編が公開された時には、HBO Maxのツイートに「非表示」の返信があるので何かと思ったら中絶に反対する過激なリプライが多々付いていた。他の作品でも目にした人も多いと思うが、アメリカのドラマや映画でクリニックに中絶しに行くシーンでは、必ずpro life派が建物の前で抗議活動をしている。あのような中で身の安全を気にしながらクリニックにたどり着かないといけない辛さと、時代遅れの危険な方法が主流の日本の中絶の酷さをつい比べてしまう。
 
どれも男性にこそ観てほしい作品だが、こうテーマとして押し出しているとなかなか観てもらえないのかなとも思う。授業で観せてくれればいいのに。

ハリウッドはアジア文化の軽視をやめろ、餅の声を聴くな

ニューヨークが舞台のNetflixシリーズをハリウッドと一緒くたにして良いのか分からないが、とにかく今回文句を言いたいのは『Dash & Lily(ダッシュ&リリー)』だ。Netflixといえば進歩的な作品が多い印象があるかもしれないが、実はあえて前時代的でベタな作品も多い。タイトルにクリスマスと入っていればだいたいそうだ。一般女性が異国の地で王子様に見初められるとか、異国のお姫様が自分と瓜二つのドッペルゲンガーだったとか。
 
 
ダッシュ&リリーはタイトルにこそクリスマスの文字は入っていないが、全編を通してクリスマスムード全開のティーンドラマだ。そもそも原作がヤングアダルトなので、大味であろうことは想像していた。この作品で注目したいのは、ヒロインのリリーが日系だということだ。
 
今年は日系キャラ躍進の年だった。『The Baby-Sitters Club(ベビー・シッターズ・クラブ)』(Netflix)のクラウディア・キシ(モモナ・タマダ)は、おしゃれでクールでアートが得意で、ガリ勉で大人しそうな日本人のステレオタイプを破る画期的なキャラだ。後から知ったがその存在は原作小説の出版時から大変アイコニックで、Netflixではアジア系クリエイターたちがこのキャラへの愛を語るドキュメンタリーも配信されたほどだ。このドラマでは途中クラウディアの祖母が日系人収容キャンプについて語るエピソードもある。
 
 
 
『Never Have I Ever(私の"初めて"日記)』(Netflix)では、学校一のモテ男、パクストン・ホール・ヨシダをダレン・バーネットが演じた。役名に日本の苗字がなかったら、彼の見た目と名前だけでは、日系であることに気がつかなかったかもしれない。実際当初このキャラには日系の設定はなかったが、彼が日系であることを知ったプロデューサーのミンディ・カリングがそれを取り入れ、日本語をしゃべるシーンも入れたという。
 
 
 
それほど出番はなかったが、映画『GOOD BOYS(グッド・ボーイズ)』では小学校の人気者の男子が日系の設定だった。そして、この作品で小学生たちを追い回すなかなか激しい女の子を演じたのが、ダッシュ&リリーでリリー役のミドリ・フランシスだ。リリーは苗字こそ明かされないものの(お父さんは白人)、ジェームズ・サイトウ演じるおじいちゃんの苗字はMoriで、お母さんはジェニファー・イケダ、兄はトロイ・イワタが演じる。
 
序盤は特にリリーがアジア系であることがアピールされることはなく、服がすべて自分の手作りであるという以外は部屋も(テレビで見る)アメリカの普通のティーンエイジャーのものだ。めちゃくちゃ天真爛漫な朝ドラ系キャラだが、同年代の友達がいないらしい。小さい頃にマイノリティであるが故に受けたトラウマが原因らしく、大学生や大人とつるんで聖歌隊をやっていたりする。
 
大好きなクリスマスに家族が予定を入れてしまい一緒に過ごすことができないと知ったリリーは、恋人を作らねば、との強迫観念で(兄のゴリ押しもあって)従兄が働く本屋にあるノートを仕込む。ノートは文学好きでないと分からないヒントを次々解いていくと先に進めるゲームのようになっており、リリー好みの年頃の男子を選別するための質問も書いてある。これをたまたま見つけて解き進んだダッシュ(オースティン・エイブラムス)が、今度は自分からヒントを書き込み、リリーと会わないままノートを通してやり取りしていく。
 
ノートではさまざまな行動も指示される。ダッシュはある日、リリーの指示通りに“餅作り教室”に参加する。そこには英語を話さないらしい日本人のおばあちゃんたち。(追記:BGMはSukiyaki)リリーは日記に「言葉が通じないとはどんなことか体験してみて」と書いている。通じないというか、ダッシュは英語で話しかけるが、おばあちゃんたちはお互いにも一言もしゃべらない。日本語もだ。
 
人には身振り手振りというものがあるのに、誰にも教えてもらうこともできず、ダッシュは見よう見まねで餅(要は大福)を形作ってみる。すると、不出来だわね、といわんばかりの表情のおばあちゃんが、無言でその餅をゴミ箱に捨てる。ダッシュがノートに目を落とすと、そこにはリリーからのアドバイス
 
Listen to mochi.
 
餅の声を聴け。
 
餅がしゃべるのか? 唸るのか? ここをつねって、とかここを押して、と言うのか? それとも耳を澄まして禅の心を習得すれば、途端に菓子職人の手さばきが身につくのか? 日本人だからといって皆が物と会話しているわけではない。あんまりKonmariさんの番組を真に受けないでほしい。しかしそこはさすがハリウッド、ダッシュは餅の声を聴き取ることに成功し、きれいな形の餅を作る。おばあちゃんたちは、さっきまで無視していたのが嘘のようにダッシュのほうを向き、一斉に笑顔で拍手する。👏👏👏
 
続いて出てくる日本的なシーンは、大晦日の家族の食卓だ。厳かにお屠蘇をまわしているが、食卓には年越しそばが控えている。どのような順番で何を飲み食いしようと各家庭の勝手だが、わざわざこんなシーンを入れるなら、一般的なやり方をちゃんと調べてくれたっていいだろう。
 
リリーと両親は父親の急な都合でフィジーに引っ越すことになり、おじいちゃんは家族が集まる最後の機会にと、正月に仏教会を借りる。それまでこの家族がそんなに信心深いことを示す描写は何一つしていないのにだ。
 
そしておじいちゃんは、孫2人にお年玉を渡す前に、一人ずつこの一年間の講評を始める。そもそも高校生と大学生の2人はお年玉をもらうには大きすぎると思うが、それを差し置いても、お年玉をもらう前に「お前は大学にも戻らずフラフラして…」なんて儀式のように説教を聞かされるところなど日本では見たことがない。いやそういう家庭もあるのかもしれないが、あったとしてもそんな家父長制バリバリの家庭をさも日本のスタンダードのように見せてほしくない。
 
この作品は、原作者も白人だし、imdbを見る限りキャスト以外に日系人もいそうにない。いたとしても、少なくとも意見を出せる立場にはなさそうだ。リリーの設定が日系である必然性はストーリー上まったくなく、それでもそのような設定をあえて選んでくれるのは大いに歓迎したいが、数あるハリウッド作品の例に漏れず、都合良くエキゾチックな要素を大して調べもせず入れ込んだだけになってしまっている。
 
これがアフリカン・アメリカンラテンアメリカンの文化を描いたものだったら反発があったと思うが、英語圏では批判はほとんど見られない。
 
もともと「今年は日系representationが熱い」というテーマの記事を年内どこかで書きたいと思っていたが、この作品が180°方向転換させた。主演2人はひたすら可愛いだけに残念だ。
 
ベビー・シッターズ・クラブはシーズン2の制作が決定しているので、クラウディアの活躍に期待したい。

コロナのある世界のドラマの話

コロナのある世界を反映する作品がちょこちょこ出てきた時は、なんだかやるせない気持ちだった。フィクションの中くらい、現実逃避させてくれたっていいのに。でもいつまでもそうは言ってられない。感染対策をしなければ撮影がいつまでもできないし、特に時世を反映させたドラマなんかは、この状況を無視していれば着々と現実味を失っていく。都合の良いところだけいつまでも逃げている訳にはいかない。
 
 
最初に観たリモート撮影作品は、『Staged』(英BBC)だった。デヴィッド・テナントマイケル・シーンが本人役で自宅から登場し、新しい演劇作品のリハーサルを遠隔でやるという名目で、ビデオ通話で延々と話しているだけの会話劇だ。舞台経験豊富で気心知れた2人の掛け合いはそれだけで楽しく、ずっと似たような画面なのに飽きさせない。リハーサルは一向に始まらず、実質近況報告をしたり、作品クレジットでどちらを先にするか言い争ったり、自主隔離生活で描いてみた絵を見せあったり、彼らが席を外していると思ったらそれぞれのパートナー(ジョージア・テナント、アンナ・ランドバーグ)が出てきて世間話をしてたりする。
 
どんな立場でもコロナで大変な思いをしていることに変わりないだろうが、彼らの場合は経済的にはそこまで困っておらず、とりあえずこうしてリモートで仕事をすることもできる。そして素敵な家族がいる。この状況を面白おかしく描いてくれる作品ももちろん必要なのだが、どこか「いいなあ幸せそうで」と思ってしまう自分もいた。
 
 
そんな時に不意に出会ったのが『Mythic Quest: Ravens' Banquet(神話クエスト:レイヴンズ・バンケット)』(Apple TV+)だった。『It's Always Sunny in Philadelphiaフィラデルフィアは今日も晴れ)』のロブ・マケルヘニーが企画・主演するゲーム会社を舞台にしたコメディで、正直9話まではそこそこといった感じだった(別格のスタンドアローンエピソードの5話についてはまた今度)。ところがスペシャルエピソードとして後から配信された10話が感動的だった。
 
ゲーム会社なので彼らも経済的にはいつも以上に潤っているし、仕事もリモートでできる。しかし若くて独身の、コミュニケーションがあまり得意でないような社員も多い。リードエンジニアのポピー・リー(シャーロット・ニクダオ)は、隔離生活の中で仕事に没頭し、それが一段落すると何をすればいいか分からず精神的に参ってしまう。クリエイティブディレクターのイアン・グリム(マケルヘニー)がビデオ会議で映像をオンにしてくれないポピーの様子を案じて問いただすと、ポピーは暗い部屋の中で泣いてボロボロになった顔を晒す。イアンはロックダウン最中の街を歩いてポピーに会いに行く(2人が友人関係だからできることで、そうでなかったら実質上司のイアンが家に来るのは怖いが)。
 
もちろんコメディなので、孤独に苦悩する人だけでなく、この状況なりの楽しみ方も描く。ビデオ会議でお互いの画面が隣り合っていることを利用して物をやりとりしているようなフリをする遊びはマネしたくなったし、ゲーム会社なので画面もそれぞれのウェブカメラ映像だけでなく、ゲームのプレー画面やコーディング画面も活用していて楽しかった。リモート撮影には最も適した舞台設定かもしれない。
 
 
そうこうしているうちに、感染対策をしながらリモートでなく現場で撮影しているドラマも始まった。Walmartのような大手スーパーが舞台の『Superstore』(米NBC)は、まさにエッセンシャルワーカーとして仕事を休むことができないスーパーの従業員たちが主役のコメディだ。社会問題に切り込むことが得意なこの作品はシーズン6の放映が始まったばかりだが、トイレットペーパーやマスクを買い占める客、マスク着用を拒むいわゆるKaren、やたらヒーローと賛美され戸惑う従業員たち、コロナ対応で多忙な中のBLMデモも既に描いた。
 
2話はシーズン1からメインキャラクターの一人だったエイミー・ソーサ(アメリカ・フェレーラ)の卒業エピソードで、何シーズンも焦らしてエイミーとやっとカップルになったジョナ・シムズ(ベン・フェルドマン)との別れの回でもあった。そんなエモーショナルな回なのに、コロナのおかげでハグもキスも一切なし。この時が一番コロナを呪ったかもしれない。元店長のグレン・スタージス(マーク・マッキニー)と別れを惜しむシーンでは、ハグの代わりに2人とも自分を抱き締めていて笑ってしまった。
 
 
エッセンシャルワーカーといえば医療従事者も忘れてはならない。『Grey's Anatomy(グレイズ・アナトミー)』(米abc)のシーズン17は、同作の舞台であるグレイ・スローン記念病院がコロナ指定病院になって少し経ったところから始まった。もともとマスクをしたシーンが多かったので違和感も少ないが、防護服のような服装を見る度に事の重大さをひしひしと感じる。
 
医師たちは多忙で疲弊しており、患者をコロナで失う度にこれまでにない無力感に苛まれる。現実世界で有効なワクチンが開発されていないのに魔法のように繰り出すわけにもいかないので、この先暗くなる一方なのだろうかと心配になる。マスクの効率的な殺菌方法(紫外線ライト?のようなもので部屋中にぶら下げたマスクすべてを一気に殺菌する)を医師が提案する場面があったが、あれは現場でも採用されているものなのだろうか。
 
もともと医者が所構わずイチャイチャしているドラマなのでそこも心配していたがそういうシーンは健在で、逆に「あれ…こんなイチャイチャして…いいの…?」となる。検査をパスしていれば良いということなのだろうか。
 
予期していなかったのは、主要キャラがコロナ患者となったことだ。医療ドラマでしかもコロナ指定病院が舞台だからそうなる可能性は大いにあるのに、どこかまだ他人事に捉えていたのかもしれない。コロナで主要キャラが死んでしまったら破局どころの騒ぎではない。でも時世を反映するとはそういうことだ。
 
主人公メレディス・グレイを演じプロデューサーでもあるエレン・ポンピオからは、「シーズン17で終わりかも」との発言も出ている。コロナ禍の世界を描くのに疲弊してしまったということでなければ良いが。
 

ウィル・フェレルの『ユーロビジョン歌合戦』はユーロビジョンを(あんまり)わかってない

Netflixで新作映画『ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜』が配信された。おバカコメディを量産してきたウィル・フェレルレイチェル・マクアダムスと組んで、ABBAセリーヌ・ディオンも輩出したヨーロッパの各国対抗ポップミュージックコンテスト『Eurovision Song Contest(ユーロビジョン・ソング・コンテスト)』出場を目指すストーリーだ。
ユーロビジョンを知る人なら、ウィル・フェレルの映画にこれ以上の題材はないと心躍ったに違いない。なぜならユーロビジョンは、最高に派手でおかしくて、自虐的パロディまでできる既にコメディさながらのコンテンツだからだ。
 
私がユーロビジョンに出会ったのは、ロンドンの大学に在学していた2007年。分かりやすくブリットポップオルタナティブロックに傾倒していた私は、テレビで流れるあまりに安っぽい音楽に「ヨーロッパにもこんなにセンスの悪い人達がいるのか…」と絶句したものだ。
(↑初めて観た年に準優勝したウクライナ代表の衝撃は忘れない)
 
しかしユーロビジョンの音楽は安っぽいだけではない。各国の審査員やテレビの視聴者の投票で勝者が決まるため、いかに派手な衣装を着るか(あるいは着ないか)、曲芸的なおまけを取り入れるか、そんな中でも自国の色をどうやったら少しでも出せるか、各国が凌ぎを削った集大成を観ることができるのだ。
 
いくらバカにしていても、キャッチーで変わった音楽とド派手で変わった演出のパフォーマンスの数々は、一度観てしまうと頭から離れない。加えて、LGBTQのアーティストも数多く出場し、さまざまな言語や民俗音楽(のようなもの)にも触れられるという、とてもインクルーシブな側面もある。
 

2016年のホスト2人による幕間のセルフパロディを観ると、パフォーマンスの傾向が一気につかめる。

これによると、ユーロビジョンに勝つ秘訣はこうだ。

➀とりあえず皆の気を引く。ホラ貝でも吹く。
➁太鼓。できれば裸の男性に叩かせる。おばあちゃんに叩かせてもよい。
➂誰も聴いたことのない民族楽器を使う。この場合は髭のおじいちゃんのほうがよい。でっち上げても誰もわからない。
➃バイオリンを使う。バイオリンは勝つ。
➄よりモダンな路線で行きたければDJにスクラッチするフリをさせる。
➅記憶に残る衣装を着る。
➆愛か平和についての歌を歌う。ABBAは戦争についての歌を歌って優勝したけど、これはおすすめしない。
(その他:ピアノを燃やす、ローラースケートを履かせたロシア人を登場させる、回し車で人を走らせるetc.)

これだけでも、映画に使える面白おかしな特徴が満載であることが分かるだろう。実際は映画の中でウィル・フェレルレイチェル・マクアダムス演じるラーズ&シグリットやデミ・ロヴァート演じるカティアナが歌っていたような、圧倒的歌唱力を見せつけるようなバラードやユーロポップが多い印象があるが、このカオスさが愛されているのだ。

しかし、この中で映画に反映されていたのは、ダン・スティーヴンス演じるロシア代表が従えていた「裸の男性」たち(太鼓はなし)と、➅と➆くらいだ。

英ガーディアンのレビューがこの映画について私の言いたかったことを先に言ってくれているので紹介したい。

Ferrell’s fame, Americanness and straightness mean that the film, in aiming for a mainstream comedy audience, misses the boat on campness.
ウィル・フェレルの著名さ、アメリカ人らしさ、ストレートさが、メインストリームのコメディを目指す上で、「キャンプさ」を取り入れる妨げになっている。

Campという言葉はいささか説明が難しいが、昨年ニューヨークのファッションの祭典「メットガラ」のテーマに採用されたことで話題になった。(参考)LGBTQと結び付けられることも多いこのcamp要素を多分に含み、ドラッグクイーンのオーストリア代表コンチータ・ヴルストやイスラム教徒でもあるフランス代表ビラル・ハッサニといったアイコニックなLGBTQパフォーマーを輩出してきたユーロビジョンをせっかく題材にするのに、主人公2人はヘテロなのだ。幼なじみのこの2人がくっつくのか?くっつかないのか?というのがこの映画のサブプロットで、「2人は兄妹?」「違う違う」というギャグ(?)が繰り返し劇中で使われるのを、ガーディアンの筆者は「なぜか近親相姦を仄めかせばホモセクシャルカップルにしないことの埋め合わせになると思っている」と痛烈に批判している。

出場者皆が集まって前夜祭的に一緒に歌う場面では、実際に近年ユーロビジョンに出場したアーティストが多数出演した。その中には前述の二人を含むLGBTQアーティストもいたものの、あくまで大勢のなかの一人にすぎなかった。コンテスト本番で歌うシーンがあった出場者のうち、「明確に」クィア性が押し出された人はいなかった(ダン・スティーヴンスのキャラクター設定は、ロシアへの風刺が効いていてよかった)。

もう一つ映画が大きくスポットを当てなかったユーロビジョンの重要ポイントが、民俗音楽だ。アイスランドの小さな村から出場するという設定の主人公たちは、村のパブで連夜歌を披露している。自分たちの曲を歌いたいのに、村人が愛する、ポップソングがヒットしすぎて半分民謡になったような曲『Jaja Ding Dong(ヤーヤーディンドン)』を毎回歌わされる。これは良かったのだが、肝心のコンテストでは、こうした地域特有の文化を取り入れたパフォーマーがほとんどいなかったのだ(ダン・スティーヴンスの曲はロシア代表なのになぜかラテンテイストだった)。

(話が逸れるがエンディングで急にまったくテイストの違うアイスランドのバンドSigur Rosの曲が使われたのは何だったのだろうか。非アイスランド人ばかりにアイスランド人を演じさせた埋め合わせだろうか。)

(↑2012年に出場しウドムルト語で歌い準優勝したロシア代表「ブラン村のおばあちゃんたち」は大変話題になった)

きちんとクライマックスに取り入れられていた要素もある。主人公たちはいつもは英語で歌っていたのだが、シグリットが密かに自分で書いていた曲を決勝で歌うことにし、サビでアイスランド語を披露する(本番の歌声はレイチェル・マクアダムスではなくスウェーデン人歌手のモリー・サンデーン)。テレビでその様子を観ていた故郷の村人たちは、「アイスランド語で歌ってる!!」と歓喜するのだ。

より多くの人が理解する英語で歌うのか?自国語で歌うのか?というのは例年多くのアーティストが悩む問題で、現在は参加者の自由となっているが、一律自国の公用語に制限されたり、英語に制限されたりとルールが変更されてきた歴史がある。

ちなみに、もともと英語で、ほかのどの参加国よりも世界的なアーティストを輩出してきたであろうイギリスは、嫌われ者的ポジションにあると言っていい。近年ことごとくコケており、私が昔ファンだったボーイズグループのBlueが2011年にイギリス代表になった時は「やめてぇぇ」と悲鳴を上げたものだ。個人的には、イギリスをおちょくるシーンがあったら最高のギャグになったのにと思う。

(↑「何で皆イギリスが嫌いかわかったね」「誰よりもイギリス人が一番イギリス代表を嫌っている」などとコメントがついてしまっている悪名高き2007年イギリス代表)

この映画は、ユーロビジョンの魅力を伝えるというより、一組の出場者を軸にしたいつものおバカコメディにユーロビジョンをちょっと取り入れた、愉快な歌満載の作品だと思えば満足度が上がる。いや、最初からそう思っていた人が大半か。さんざんユーロビジョンを語ったが、私はそこまで熱烈なファンだった訳ではない。今回の映画を観て改めてユーロビジョンの魅力に気付き、どうしてもこれをきちんと伝えねば!という謎の衝動に駆られてしまった。気付きを与えてくれた映画に感謝したい。

 

 

マイノリティ表象や性的搾取について考えるための配信系コンテンツ6選+1

色々排他的な言説を目にして怒っていたが、意見すべきところに意見してなお余った怒りを消化しようと、マイノリティ表象や性的搾取についてわりとド直球に考えさせる配信系コンテンツの紹介を一気に書いた。

AppleTV+は作品数が少ないのでまだ人気がないけど、オリジナルコンテンツのクオリティがとても高いのでもっと観られて良いと思う。Apple製品を最近買った人は大体一年間無料、そうじゃない人もオリジナルコンテンツはすべて1話または2話だけ無料で観られる。

※ネタバレ注意

ザ・モーニングショー(The Morning Show)

 

Apple TV+

特殊メイクでカズ・ヒロさんがオスカーを受賞したのも記憶に新しい『スキャンダル(Bombshell)』は、実話に基づいてかなり淡白にテレビ局幹部のmetooスキャンダルを描いた。こちらはそれにエンタメ性も詰め込んだような、ニュース番組の看板キャスターの失脚とその後。

中心人物は、性暴行で複数の女性に訴えられてもいつまでも合意の上だと言い張る男性キャスターのミッチ、長年ミッチと一緒に番組の顔を務めてきた女性キャスターのアレックス、ミッチの後任に急遽指名される女性レポーターのブラッドリー。正義感を持って真実を追求しようとするが男社会の中で常に叫ぶように正しさを訴えねばならず、あげくモンスター扱いされてきたブラッドリーは、最近フェミニストから再注目されている田嶋陽子を思い出させる。

ほかにも、訴えたり代わりに昇進を受け入れたりとそれぞれの決断をする被害女性たち、事件を揉み潰してきた局の幹部、見てみぬフリをしていた周りの番組スタッフ、ミッチと不倫関係にあったスタッフ、自分たちの関係もバレたら糾弾されるのではと思い悩む番組内の歳の差カップル、ミッチが「モンスターはこいつであって自分とは違う」と卑下する未成年を性的搾取してきた映画監督など、metooをめぐるあらゆる立場の人が描かれる。

ジェニファー・アニストンはアレックス役で全米映画俳優組合賞を受賞している。

テレビが見たLGBTQ(Visible: Out on Television)

 

Apple TV+

アメリカのテレビでどのように性的マイノリティが描かれてきたか、各時代のクリエーターや出演者の話を交えてものすごく網羅的に振り返る。同性愛が違法とされていた時代の番組から、ドラマで初めて登場人物がカミングアウトした瞬間はもちろん、Glee、Grey's Anatomy(後述)、Empire(後述)、Billions、THE WIREQueer as Folk、Queer Eye for the Straight Guy、RuPaul's Drag Raceなど思いつく限りの近年のドラマやリアリティ番組が紹介される。

特に人気司会者のエレン・デジェネレスが主演していたコメディドラマで(役柄の上でも本人としても)カミングアウトしたときの経緯を改めて知ると、彼女がいかにLGBTQコミュ二ティの中で大きな存在かがわかる。今でこそブッシュ元大統領と会っているところを激写されたり、人のプライベートを詮索するようなインタビューをしたり、すぐに人を性的オブジェクト化して見ようとしたり、アジア人への偏見が隠しきれなかったりして批判されることも多いエレンだが、彼女もカミングアウト後一度は雲隠れせざるを得なかった過去を考えると、(語弊はあるが)そんな醜聞ですら感慨深い。

ちなみにドラマの中でエレンが愛を告白した相手は、先日『マリッジ・ストーリー』での演技で賞レースを総ナメしたローラ・ダーン。彼女も番組出演後しばらく仕事を干されていたらしい。

マスター・オブ・ゼロ(Master Of None)

 

Netflix

インドからの移民の息子であるアジズ・アンサリが主演し、台湾からの移民を両親に持つアラン・ヤンと共同で製作を務める、マイノリティ表象をかなり意識したコメディドラマ。ニューヨークの小洒落た風景やインテリア、グルメ好きが撮っていると分かる多国籍なフードの数々、センス抜群の音楽が心地よく(New Editionに惚れ直す)、アメリカのマイノリティの日常生活にスッと誘ってくれる。

S1E2『Parents』では、アジズ演じるDevと台湾系の友人ブライアンがそれぞれの両親にアメリカに来たいきさつを改めて尋ねてみる。アジズの実の両親がそのままのインド訛りで両親役を演じ、まるで本当に友人の両親の話を聞いているような気分になる。アメリカに来てからの数々の苦労話は、彼らの実話を基にしているという。

メインキャラをほとんど登場させずニューヨークの市井の人々の日常をただただ描いたS2E6『New York, I Love You』では、聾唖者の夫婦が手話で性生活について話し合い、ドアマンが入居者に振り回され、タクシー運転手たちが夜遊びを楽しむ。

毎年の感謝祭を通してレズビアンの娘と母の20年余りを描いたS2E8『Thanksgiving』のきめ細やかさは特に秀逸だ。Devの幼馴染のデニースを演じたリナ・ウェイスは、自身の母親へのカミングアウトの経験をもとにこの回の脚本を書いた。デニースの部屋に貼ってあったジェニファー・アニストンのポスターも、ダイナーでのカミングアウトも、恥ずかしいインスタグラムのアカウント名を持つガールフレンドも実話だという。アジズはアラン・ヤンと脚本を書いた『Parents』に続いて、リナと書いたこのエピソードの脚本でエミー賞を勝ち取った。

前述のエピソードほど社会的な色はないが、Devが彼女とデートでテネシー州ナッシュビル(カントリー音楽とチキンの街)に行き肉を食べまくるS1E6『Nashville』はひたすらかわいい。そしてS1E10では、彼女との結婚に悩むDevが妄想シーンの中で見せる結婚観に首をブンブン振って頷いてしまう。

“普通の”生活を送るためにこの時代遅れな可能性のある慣習に従って彼女をパートナーとしますか?運命の相手を探す理想の道を諦めて先に進むために彼女とうまくやっていく努力をする準備はできていますかーー。

このドラマは、アジア系アメリカ人レズビアンといったマイノリティの物語であり、等身大のアラサーの物語でもある。

最終話のS2E10では、Devにテレビ番組の司会の仕事をくれたプロデューサーがセクハラで告発され、Devも無職になる。皮肉なことにその脚本を書いたはずのアジズがmetoo問題で告発されたため、この番組もそのまま打ち切り状態に。アジズはハリウッドにいられなくなり諸外国を放浪、日本にも数カ月住んでいたらしい。2019年にNetflixのスタンダップスペシャルで事実上“復活”しているが、この後メインストリームに戻るのかはまだ分からない。

アジズへの告発についてはここでも紹介されているが(この記事のトーンにはまだ同意できない)、ここまでくると正直もう何が白で何が黒なのか、一読しただけでは判断できない。少なくとも、Netflixスペシャルでの復活はこうしたmetooの危うさや真の“同意”について真摯な意見を交わせる機会だったが、アジズはそれをせずにひとまず低い姿勢をとることで、復活すること自体を優先させたように思う。

ハンナ・ギャズビーのナネット(Hannah Gadsby: Nanette)

 

Netflix

オーストラリアの離島で育ったレズビアンで、ADHD自閉症の診断を受けたスタンダップ・コメディアンのハンナ・ギャズビー。政治も下ネタもすべて笑いに変えるスタンダップのイメージとは一線を画した怒りの込もったパフォーマンスで、彼女の生きづらさが痛いほど伝わってくる。

よく「怒っていたら対話はできない」という人がいるけれど、そういう人にはまず人の怒りを受け止めることを覚えてほしい。

美術史を専攻していたという面もある彼女が西洋美術史ピカソゴーギャン)を糾弾するのを見て、私は「作品に罪はない」とは言えなくなった。

Empire/エンパイア 成功の代償

各種有料レンタルのみ

上述の小洒落た今風の作品たちとは違って、愛憎!金!権力争い!裏切り!ショービズ!と迫力押しの音楽ドラマ。大手レコード会社を1代で築いた伝説的ラッパー・ルシウスの3人の息子の後継者問題がメイン。

次男のジャマルシンガー・ソングライターとしての才能を持ちながら、ゲイであることで父親から蔑まれる。先述のApple TV+『テレビが見たLGBTQ』では、幼い頃にハイヒールを履いて遊んでいたジャマルがルシウスから暴行を受けゴミ箱に放り込まれるという衝撃的なシーンが紹介されている。

ジャマル役のジャシー・スモレットは、S5の撮影途中だった2019年に自身への暴行(ヘイトクライム)を偽装するという前代未聞の事件で逮捕。一度は不起訴になったものの、検察側の公正さが問題視され今年に入って再度起訴された。

グレイズ・アナトミー(Grey's Anatomy)

 

S13まではprime videohuluで見放題、それ以降はレンタルなど
ドラマが面白いのは前半だが社会的側面が強くなるのは後半

基本的には医者が所構わずイチャイチャしている医療メロドラマ。手術室や緊急外来での臨場感もさることながら、一番注目に値するのはあらゆる時事問題を取り込みあらゆる属性の人を登場させようという意気込みだ。

L、G、B、Tの医者も患者も登場し、トランス男性の医者はトランス男性の俳優が演じる。「私の代名詞はtheyです」と言う患者に戸惑う初老の黒人の医者もいれば、「伝えてくれてありがとう」とすんなり受け入れる若い医者、ヒジャブを被った医者、たった一回の信号無視で永住権を奪われ国外退去を余儀なくされるラテン系移民の医者、PTSDに苦しむ元軍医もいる。

同性カップルの結婚も離婚も親権争いも描けば、主人公はアフリカから養女を迎え入れるわ、高すぎる保険料のせいで手術代が払えない患者のために保険金詐欺を働くわ、その結果科せられた社会奉仕活動で出会った無保険の女性たちにその場で診療を始めるわ。アーミッシュの両親が子どもへの治療を拒否する場面や、性暴行を受けた患者にレイプキットを使用する手順を事細かに描く回もある。

肝心のドラマはドロドロのグチャグチャになりすぎて視聴者もいい加減離れてきているが(医者たち避妊しなさすぎ)、この果敢な姿勢に毎回勇気付けられる。

Superstore ※番外編

 

※日本未上陸 NBCの公式サイトで(アメリカにいれば)観られる(英語字幕あり)

ビジネススクールを出ていながら色々失敗して大手スーパーの店員になったジョナ。たいてい彼より学歴の低いほかの従業員たちに、意識高い系のジョナが根気強く啓蒙し、職場環境を改善しようとしたり、労働組合を作ろうとしたりと奮闘する。基本的にみんながアホすぎることによって笑えるコメディなので、そのアホさと扱うトピックの真面目さのギャップがすごい。

避妊薬を薬局コーナーからなくすためにすべて買い上げようとするクリスチャンの店長、トランス女性を女子トイレに入れるなとスーパーの前で抗議し始める女性客、永住権を持っていなかったことをある日突然親から知らされ強制送還されてしまうフィリピン系のスタッフ、人員不足で出産直後から働かされボロボロのフロアマネージャー…。

ハロウィンエピソードでは、仮装コンテストに勝ちたいスタッフが、白人スタッフのラスタやアラジンなど他の人の仮装を片っ端から「文化盗用だ」と言ってやめさせる。しまいにはスーパーマリオも「イタリア人に失礼だ」と言われる始末。

フェミニズムがテーマの回では、女性がCEOの会社にスーパーを買収されて脅威を感じる男性陣に「フェミニズムが存在するということは何かを奪われることとイコールではない」とジョナが説く場面で思わず拍手を送った。