Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

『CODA(コーダ あいのうた)』について知っておきたいろう者の視点

Appleサンダンス映画祭史上最高額の2500万ドルで配給権を獲得したシアン・ヘダー監督の『CODA(コーダ あいのうた)』。エミリア・ジョーンズの歌唱力、手話シーンの多さもさることながら、『Sing Street(シング・ストリート 未来へのうた)』のフェルディア・ウォルシュ=ピーロの成長ぶりに感激してしまったこともあり、私の今年の暫定ベストと言えるくらい好きだった。

しかし使い古された表現もツッコミどころも多く、完璧な映画では到底ない。特にろう者やコーダ(Child of Deaf Adults=ろう者の親を持つ聴者の子ども)の方から見て、この映画を好きと言うことは傲慢にならないだろうかと気になってしまって、感想を探してみた。

ざっとツイートやブログ記事、YouTube動画を漁っただけだが、当事者の間でも、この映画への評価はだいぶ分かれている。そして、褒めている人も手放しにすべてを絶賛しているわけではなく、不自然な描写やプロット上の不満を多く指摘している。最終的にこの映画が大好きだという気持ちは今のところ変わらないけれど、この映画を観る上でそうした当事者の視点を共有しておく必要性を感じたのと、それに対して現時点で自分がどう折り合いをつけたのかを記しておこう思ったので、この記事を書いている。

 

ここからは、主にろう者であるJenna Fischtrombeaのブログ

Rikki PoynterのYouTube動画

Deaf Person Reviews CODA (2021) | CODA Movie Review | Film Fridays - YouTube

にあるCODAへの指摘について考える。

 

(※ネタバレレベルの内容は後半にそう注意書きした後に記載した。)

ろう者×音楽という組み合わせ

ろう者や彼らに関わる人がメインキャラクターになる作品では、音楽をテーマにしたものが多い。ドラマーが聴力を失う『Sound of Metal(サウンド・オブ・メタル)』も、ミュージシャンとろう者が恋に落ちる『Listen to Your Heart』も、聴力を失うティーンがミュージシャンに出会う米Huluオリジナル作品『The Ultimate Playlist of Noise』も、日本のドラマ『オレンジ・デイズ』もそうだ。

CODAの主人公は、ろう者の両親と兄のもとに生まれた家族で唯一の聴者(コーダ)のルビー(エミリア・ジョーンズ)。音楽は以前から好きだったようで、家族が気にしないのを良いことに、家業である漁の最中も家でも大声で歌ったりレコードをかけたりしている。なぜか高校の最終学年で今さら合唱部に入ることを決め、急に音楽学校を目指すことにする。

劇中では、母親のジャッキー(マーリー・マトリン)が「私が盲者だったら画家を目指したわけ?」と言うシーンまである(このシーンは単に意地悪で嫌だと前述のブログでは書いているが、障害者を聖人化しないという意味では良いのかなと感じた)。

Poynterは、「ろう者だって音楽を楽しめるし、ろう者のラッパーやギタリストやピアニストだっている。ろう者の話になると音楽を結びつけようとするのはうんざり。ほかの職業にしたって良いのに」と話している。

CODAは歌唱シーンが見せ場となるので今の話のまま音楽とは切り離せないが、ティーンの成長物語と考えれば音楽以外の道に進ませることもできただろう。マイノリティに属する人を描く話が増えること自体はとても良いことだが、その困難に立ち向かう話ばかりでなく、当たり前に存在する人として型にはめない描写をすることが次の一歩になる。

主人公はコーダ当事者ではない

この映画の最大の功績は、原作のフランス映画『エール!』とは違い、ろう者の役どころに当事者の役者を配したことだ。しかし最初からこの方針だった訳ではなく、監督の交渉や、先に母親役をオファーされたマーリー・マトリンの「他のろう者役も当事者でなければ自分は出ない」という粘りがあったらしい。これはろう者唯一のアカデミー賞受賞俳優(1987年の『Children of a Lesser God(愛は静けさの中に)』)である彼女だからできたことだろう。

CODAは主人公と家族の関係がメインなので、手話だけで日常会話をするシーンがたくさんある。性の話を躊躇なくする両親も、スマホアプリやバーで女の子をナンパしてばかりの兄も、ろう者のステレオタイプに嵌まらないユニークな役柄だ。

一方、ルビー役のエミリア・ジョーンズはコーダではなく、9カ月かけて手話を覚えたという。

素人目にはわからないが、やはり(手話が第一言語の)コーダが使っているような流暢な手話には見えないらしい。コーダのように手話が駆使できかつ歌唱力のある人材を探すことは難しいのかもしれないが、手話を使う人にとって主人公の手話が初心者に見えるというのは演技が下手に見えることと同義で、手話がわからない聴者であれば気づかないんだからと無視できる問題ではないだろう。

サウンド・オブ・メタルで一躍注目されたポール・レイシーはコーダで、私もこの言葉は彼のインタビューを読んで知った。彼の役はもともとろう者の俳優のみを対象に募集されていたのに途中で「ろう者を推奨する」に文言が変わったらしく、レイシーが抜擢されたことには批判もあった。

マイノリティ役のキャスティングには、演技の質だけでなく偏見や雇用機会の問題も関わってくる。ルビー役をコーダでない役者が演じることが絶対的に悪いとまでは言い切れないが、この議論が今後の映画界に良い影響を持つと信じたい。

なぜこれほどルビーに頼らないといけないのか

劇中、ルビーは何かと両親や兄のコミュニケーションの補助をしている。獲った魚の値段交渉、病院の医者とのやりとり、おばあちゃんとの電話、マスコミからの取材など。そうした“家族サービス”と歌の練習との両立に悩むところが中盤のメインプロットだが、ここは私でも不自然に感じた。

両親も兄もルビーが生まれる前からこの街で漁をして暮らしているのだから、自分たちでどうにかする術はあるだろう。ついつい娘に頼ってしまうというのはわかるが、明らかに学業に支障をきたしているのだから、大声で喧嘩するまでもなく以前のやり方に戻そうとするはずだ。「コーダであることの苦労」をことさら話の中心に持ってこようとする安易さはいただけない。

ろう者コミュニティの不在についても多くの人から指摘されている。ジャッキーは「月に一度会いに行くろう者の人たち以外に友だちがいない」とルビーに言われる場面があるが、そこは人付き合いを好まない変わった夫婦という言い訳も通用するかなと思う。しかし舞台はほかに一人もろう者や手話通訳者がいないような田舎ではない。

変なしゃべり方をするはずがない?

ルビーは「小さい頃に変なしゃべり方をしていてからかわれた」と話しているが、それが起こり得るのは家族が手話だけでなく音声での発話もする人の場合で、家族のしゃべり方を真似するからということらしい。CODAの両親と兄はしゃべらないので、それは当てはまらないのだという。(※追記)しかしこれは各家庭によってもかなり事情が違いそうなので一概には言えないかもしれない。

 

※以下は特にクライマックスに関するものなので、鑑賞後に読んでもらった方が良いかもしれない。

 

突然“無音”にする演出

私にとって最もショックだった指摘は、ルビーが合唱部のコンサートでマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)とデュエットする最初のクライマックスについてのものだった。

ルビーの歌を聴いたことのない家族は、ルビーは本当に歌が上手いのか、今何が起きているのかと困惑顔でコンサートに参加している。合唱部全員で歌う数曲が終わり、ルビーとマイルズが2人で練習していたデュエット曲"You're All I Need To Get By"を歌い出すと、サビにかかるあたりですべての音が無音になる。誰もが楽しみにしていたであろう肝心の曲のいいところを聞かせず、唐突に家族の視点に鑑賞者を置く演出は、とても心動かされるものだった。頭では彼らが聞こえないことはわかっているつもりでも、どこかそれがどういう状態なのか想像しきれていなかった自分がいたのだ。

 

が、Fischtrombeaはこれが大嫌いだったという。ろう者が人の歌を聞くとき、単に音が全くなくなるだけではない。視覚情報から得られるものはとても大きいのだという。CODAではこれが映像で表せていたとはいえず、何なら単に音がないだけではなく視界までぼやけていた。ルビーとマイルズの方より、周りの観客の反応を見ることで情報を得ているような見せ方だった。

このシーンは、今でも何度見返しても泣けてくる。でも同時に、聴者にとって感動的で一見ろう者に寄り添っているように見えるシーンが、ろう者にとって不快にすらなり得ると知ることができて良かったと思う。

歌いながら手話で歌詞を伝える

もう一つのクライマックスは、ルビーがバークリー音楽学校への入学試験で"Both Side Now"を歌う場面だ。応援のため試験会場にこっそり潜り込んだ家族を確認したルビーは、彼らにも歌詞がわかるように手話を交えながら歌う。

この手話表現の"豊かさ"も相まって審査員は感心したように見えるし、合唱部のコンサートでも手話をすればよかったのにと私は思ってしまったのだが、Fischtrombeaは「聴者は必要のない歌詞の手話通訳に意味や感動を見出すことが大好き」と皮肉る。歌詞カードがあればそれでいいというのだ。

歌詞の手話通訳への"盲目的崇拝"については、さらにまるまるその問題点を指摘するために書かれたSara Novićの記事がある。

少し前に私のTLでも話題になっていたCardi Bの“WAP”の手話通訳動画。聴者の白人女性によるこのパフォーマンスがまたたく間にviralになり多くのメディアでも取り上げられたのに対し、

そうしたメディアの記事はその一カ月ほど前にろう者の黒人女性Raven Suttonが投稿した手話通訳動画も、その他大勢のろう者による同様の動画も取り上げなかった。

また、この手話通訳についてろう者がどう思うかコメントを取ったメディアもなかった。
Novićは、これは聴者の“救世主コンプレックス”による現象だと指摘している。

While the determination that our language is “cool” or “beautiful” is just fine, it becomes problematic when hearing people give themselves the authority to decide what is good, what isn’t, and who is allowed to have access. How do hearing viewers know whether a specific interpretation of “WAP” is an effective translation if they aren’t fluent ASL speakers? Answer: they don’t.

私たちの言葉が「かっこいい」とか「美しい」と決めるのは良いが、聴者が手話の良し悪しや誰がアクセスを持てるのかを決めることは問題だ。WAPの特定の歌詞の訳が的確かどうかなんて、手話を知らない聴者はどうやったらわかるのだろうか?わからないのだ。

ろう者を包括することのない手話の“崇拝”は、文化盗用になり得る。Novićは、これは「見た目の美しさだけで漢字の意味を知らずにタトゥーを彫ることと同じ」だと言っている。

ろう者が絞り出すように発する音声

最後に、ルビーが音楽学校に入学するために旅立つラストシーンについて言及しておきたい。別れを惜しんでなかなか出発できないでいるルビーに父親のフランク(トロイ・コッツァー)は声を出して「Go」と言う。これはいくらなんでも聴者の上から目線がすぎるだろうと私も観ながら思った。コッツァーはこのシーンのためにこれだけ言えるように練習したらしい。

Fischtrombeaは「2人とも手話が達者なのだからしゃべる必要などない」と一刀両断する。

 

ほかにもろう者・聴者以前のプロットの問題は多数あるが、観ながら気づけるものも多い。ろう者3人のキャスティングに始まり、監督も手話を学んできたこと、撮影でのさまざまなコミュニケーションの配慮、すべての劇場上映に字幕を付けたことなど、進歩的な点もたくさんある。

賞レースでも健闘してほしいと思うが、ろう者やコーダからの指摘が無視されることなく、今後のより包括的なrepresentationにつながってくれることを願う。

『In The Heights(イン・ザ・ハイツ)』の保守的な家族観と画一的な女性像への抵抗感

※自分では重要でないと思う部分しかネタバレしていませんが、作品的にはわりとメインの部分なので気にする方は鑑賞後にどうぞ
 
 
近頃、男女が結婚しました/結婚して子どもができました、という従来的な恋愛観/家族観のエンディングがすっかりダメになった。よっぽどそのことに意味があるか、本筋がそこではなく気にならないような組み立てになっていないと、多様な生き方を提示できるチャンスをまた一つ潰しやがって、と思ってしまう。群像劇でメインキャラクター全員がカップルになり子どもを持って終わるなんてことがあれば、もうその落胆は絶望に近い。5年くらい前まではまだまだそんな作品は多かった気がするけれど、最近はさすがに観なくなったかなあと思っていた。
 
映画『In The Heights(イン・ザ・ハイツ)』の元のミュージカルは2005年初演なので、価値観が古いこと自体への言い訳はつく。しかし、それを2021年にそのまま持ってくるにはそれ相応の理由がいる。
 
この作品の主題は、ニューヨーク・マンハッタンのワシントンハイツのラテン系住民たちのrepresentation、登場人物それぞれの夢や挫折、その背景にある移民社会の現実、故郷とは、と言った部分だ。それら自体はまだまだ普遍性のあるテーマで、だからこそ高い評価を受けているのだと思うし、私も興味を持った。ある意味恋愛要素は重要ではないし、なんならなくても成り立つ話だと思う。
 
それでもこの作品は、男女カップル2組をメインに据えることを選んだ。一番気になったのは、主人公ウスナビ(アンソニー・ラモス)が子どもたちに昔話を聞かせるところからスタートし、最後にその中の一人がウスナビの子ども、しかもウスナビが気になっていて話の中でデートするヴァネッサ(メリッサ・バレラ)との子どもだと種明かしする、という構成だ。
 
幼い頃に住んでいたドミニカ共和国のビーチにある父の店を再び開くというウスナビの夢がどうなるのか、ヴァネッサはファッションデザインの道に進むために街を出られるのか。父親がなんとか捻出したお金で周囲に期待されながら大学に進学したが、マイノリティであるが故になじめず挫折しそうになっている友人のニーナ(レスリー・グレイス)はどのような道を選ぶのか。正直これらのプロットと比べて、ウスナビとヴァネッサの恋模様はどうでもいい。苦悩や葛藤を明かし、励まし合い、夢に向かって前進しながら少しずつ恋愛関係も発展させていくまでは良いのだが、実は恋は成就してました!子どもも生まれてました!なんてドヤ顔で披露されても、今どき何でそんな仕掛けで喜ばれると思ってるの…?としか思えない。
 
ほぼ全ての登場人物がラテン系であることで、女性像が随分と限定されて見えるのも気になる点だ。ヴァネッサもニーナも、ヴァネッサが働くサロンの女性たちも、猛暑という設定だから仕方ないといえばそうなのだが、体のラインが分かりやすいタンクトップやホットパンツを着た、いわゆるセクシーなタイプだ。文化的背景によって多少傾向はあるとはいえ、もう少し多様なファッションの人がいても良かったのではないか。そうした視野の狭さが、今回批判されたdarker skinの登場人物の少なさにもつながったのではないかと思う。
 


一番抵抗があったのは、『Brooklyn Nine-Nine(ブルックリン・ナイン-ナイン)』では無口でクールな刑事を演じていたステファニー・ベアトリスが、ピンクのビキニを着て、サロンの店長のおまけのように(『Mean Girlsミーン・ガールズ)』で言えばレイチェル・マクアダムスではなくその横にいたレイシー・シャベールのように)踊ったりサロンで噂話をしたりするような役回りになっていたことだ。いろんな顔を見せてこそ役者だろう、と言われればそれまでだが、一度かっこいい役を観てしまった俳優がより従来的な女性像を演じているのを観ると何とも言えない気分になる。
 
ステファニーの役は最初店長の娘かと思っていたのだが、この2人は母娘でなくカップルだったらしい。サロンのシーンではドラァグクイーンのヴァレンティーナもカメオ出演している。しかし、言及できるクィアキャラクターといえばそれくらいだ。この作品はプライド月間のイベントで上映されたらしいが、正直もうこんな仄めかす程度のrepresentationでそれは…と思った。
 
家族観の部分だけでなく、肝心の夢の部分も、大した着地はしない。ウスナビは前と何が変わったの?という感じだし、ヴァネッサのファッションデザインは正直言ってダサい。アンソニー・ラモスのラップも好みではないしジョン・M・チュウ監督のキラキラ演出も(『Crazy Rich Asians(クレイジー・リッチ!)』では好きだったけど)合っているとは思えなかったし、もうこの映画は私向きではないと早めに気付くべきだった。

ジェイミー・ドーナンの天然キャラがハマり役、隠れたWTF案件『Wild Mountain Thyme』

予告編が公開されるやいなや、エミリー・ブラントジェイミー・ドーナンのオーバーなアイリッシュアクセントがバカにされ、いかにもアメリカ人から見たステレオタイプアイルランドの設定とベタそうなストーリーで早くもネタ化していた『Wild Mountain Thyme』。しかし、本編はそんなレベルじゃなかった。

 

 

舞台はアイルランドの田舎の農場。ローズマリーエミリー・ブラント)は隣の農場に住む幼馴染のアンソニージェイミー・ドーナン)に想いを寄せていたが、アンソニーローズマリーのことが嫌いではなさそうなものの、なぜか避けている。アンソニーの父トニー(クリストファー・ウォーケン)はそんな調子で結婚する気配のない息子より、家族を持つ気のあるアメリカ人の甥アダム(ジョン・ハム)に農場を継がせると言い出す。農場の下見を兼ねてトニーの誕生日パーティーアメリカから来たアダムはローズマリーのことが気に入ったようで…というのがあらすじ。

 

※ここから先はこの作品のどこがすごいのかを語るのだが、たぶんどこがすごいかなんてことを知ってしまうと意外性が半減するので(ネタバレはしないけど、あそこがすごいのか!と思いながら観るのと何も知らないで観るのとは衝撃が違うと思うので)それでも読んでくれる方だけどうぞ。

 

どこをどう切り取ってもベタベタのベタなストーリーなのだが、観始めるとどうも思ったよりかなりコメディの気配を感じる。最初からラブコメだと言ってしまっている媒体もあったのだが、多くはロマンスモノ、という感じの紹介だったので、ここまで笑えるとは想像していなかった。何より、登場人物たちがいたって真顔なのだ。真顔なのに、ジェイミー・ドーナン一挙手一投足が面白可笑しい。常に困った表情で、金属探知機を持ってウロウロしているか、コケているか、雨に濡れている。ステレオタイプアイルランド人を俯瞰して見ているアダムだけは、鑑賞者に近い立場かもしれない。

 

クリステン・ウィッグ&アニー・マモローの爆笑コメディ『Barb and Star Go to Vista Del Mar』にも出ていたジェイミー・ドーナンだが、そちらではこの真顔がこわばった感じに見えてしまって、天然キャラっぽい良さも出てはいたものの、アメリカンなコメディにまだ慣れずはっちゃけきれていないように感じた。しかし、こちらでは完全にそれが機能している。ドジでド田舎者で何を考えているか分からない真顔の天然キャラを完成させたのだ。

 

 

しかし、この作品がすごいのは、単に思ったより笑えたから、ではない。最大の分岐点は、終盤、何を考えているか分からないアンソニーローズマリーに「何を考えていたか告白する」場面にある。私はさらに爆笑してしまったが、ポカンとあっけにとられる人もいるかもしれない。そんな爆弾を、この作品は真顔で落としてくる。後から振り返ると序盤からそこかしこに伏線はあるのだが、だからといってこの展開を予想できる人はまずいないと言っていい。

 

後から知ったが、これは舞台作品をその作者自らメガホンを取って映画化したもので、監督のジョン・パトリック・シャンリィはトニー賞ピューリッツァー賞も受賞している実力者らしい。The Irish Timesは舞台の方をこき下ろしていたが、この記事によると衝撃のシーンは原作から変わっていない。アメリカのメディアでは概ね好評だったようだが、劇場では一体どんな反応だったのか、こんな展開でも演劇なら真面目に捉えられるのか爆笑の渦だったのか、気になってしょうがない。

 

実話殺人事件モノの新たな道筋を示した『The Investigation』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品を観るのがやめられない。ここ最近だけでもデヴィッド・テナントが連続殺人犯を演じた『Des(デス)』、『White House Farm(ホワイトハウス・ファームの惨劇~バンバー家殺人事件~)』、ルーク・エヴァンス×キース・アレンの『The Pembrokeshire Murders』(以上すべて英ITV)を観た。ちょっと前で言えばデヴィッド・フィンチャーNetflixシリーズ『Mindhunter(マインドハンター)』(実際の事件というよりは実在の連続殺人犯が出てくる)やザック・エフロン主演映画『Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile(テッド・バンディ)』、『El Angel(永遠に僕のもの)』もある。

 

なぜそんなにこの手の作品に惹かれてしまうのか。有名な事件だとモノによっては結末を知っていることもあるが、実話と分かっているからこその緊張感と説得力がやはり何より勝るし、皆作りがしっかりしていてうまいのだと思う(『テッド・バンディ』はそうでもなかった)。

 

「やめられない」とか「惹かれてしまう」と書いているのは、実在の悲惨な事件をエンタメとして消費することへの罪悪感が拭えないからだ。どの作品も、被害者への追悼や当時のずさんな捜査への批判、逆に懸命な捜査への称賛、犯罪者心理の解析といった大義名分はあっても、商業作品として世に出している限りやはり事件をセンセーショナルに描いてひと稼ぎしたいんだろうという批判からは逃れられない。何より自分が遺族だったらと考えると、どんな理由があっても事件のことをエンタメになどされたくない。ただでさえ実話のフィクション化はセンシティブになるべきことがいっぱいあるのに、殺人事件なんて一歩間違えば実在の人物を傷付けてしまうことだらけだろう。

 

デンマークのドラマ『The Investigation(インベスティゲーション)』(3月スターチャンネルEX配信)は、そんな中でひときわ異彩を放っていた。デンマークの発明家を取材しにきたスウェーデンの女性ジャーナリストの切断遺体が海から発見された2017年の“潜水艇事件”。タイトルの通りひたすら地道な捜査を描くのだが、最大の特徴は容疑者の顔も声も、名前すら一切登場しない点だ。

 

 

これまで挙げたほかのドラマは、どれも容疑者役俳優の迫真のサイコパス演技が一番の見どころだった。それがこの作品では、取り調べを担当したコペンハーゲン警察の主人公の部下たちの報告という伝聞でしか容疑者の言葉を聞く機会はない。初めての展開だったので、全6話中3話目くらいまではまだ「もったいぶってこのあと大々的に登場するんじゃないの?」と思っていた。極力センセーショナルさを抑えるという点で、これはとても大胆な決断だったと思う。

 

さらに、やっと容疑者を殺人で起訴することができ、いよいよ裁判かと思えば、法廷シーンはすっ飛ばされる。検事役のピルー・アスベック(『Game Of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』)の活躍を観たい人には残念だが、このドラマのメインはあくまで捜査なのだ。

 

監督・脚本のトビアス・リンホルムは、マッツ・ミケルセン主演の『Another Round(Druk)』の脚本を手がけ、前述の『マインドハンター』にも関わっている売れっ子だ。彼は今回主人公となったイェンス・ムュラー元捜査主任に別のテロ事件について話を聞きに行ったが、潜水艇事件の捜査での科学者やダイバーの活躍や被害者キム・ウォールの両親との友情について聞き、事件当時のマスコミの容疑者のことばかり扱った過激な報道とは違うアプローチで伝えられる物語があると考えたという。

 
I wanted to tell a story about Jens, Kim’s parents and the humanity of it all. A story where we didn’t even need to name the perpetrator. The story was simply not about him.
 

 

キム・ウォールの両親イングリッドとホアキムにも実際に会ったそうで、このドラマは彼らの協力で作られているということが一番の安心要素でもある。制作にあたっての彼らの唯一の要求は、彼らの飼い犬Iso役を本物のIsoが務めることだったらしい。潜水艇を海底から引き上げるシーンでは実際にその時使われた船を使い、当時の実際のクルーとダイバーが出演したという。

 

個人的には今のご時世警察の努力よりは故人の生前の活躍を伝えてくれる作品を観たいが(なので『Once Upon a Time in Hollywood(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド)』は好きだった)、最後にイングリッドとホアキムが娘の名前で女性ジャーナリストを育成するための基金を創設したことが描かれていたのは良かった。このドラマは4人に1人のデンマーク人が視聴し、マスコミも容疑者でなく、ジャーナリストとしてのキムについて報道しだしたという。

 

センセーショナルなドキュメンタリーも毎年のように次々製作される中、『The Investigation』は実際の事件を扱うフィクション作品の一つの誠実なあり方を示したと思う。

Black LivesではなくAll Livesの話になっている『Soul(ソウルフル・ワールド)』

私は普段から面白くなかった作品には面白くないとズバズバ言う方だが、周りの9割9分くらいがあまりに絶賛している作品の良さが分からなかった時は多少弱腰になる。昨年は映画『The Half Of It(ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから)』(Netflix)がそれだった。いや別に嫌いというほどだったわけではなく、個人的ワーストは『Bad Boys for Life(バッドボーイズ フォー・ライフ)』だったが、あれはけっこうこき下ろしている人もいたので私も安心して心置きなくこき下ろしている。あとついでに言うがドラマ『Modern Love(モダン・ラブ)』も評価され過ぎだと思う。

 
 
印象的にハーフ・オブ・イットと同レベル、たぶん視聴者数も考慮するとそれ以上の高評価を得ている『Soul(ソウルフル・ワールド)』(Disney+)を観た直後の私の感想は、「そのメッセージで皆そんなに感動できるの…?」だった。トレント・レズナー&アティカス・ロスの音楽やニューヨークの街中の質感は素晴らしくはあったのだが、肉体から抜けた魂の青白いQooみたいな造形も生前の世界の管理人(?)「ジェリー」たちの抽象画みたいなデザインも単なる手抜きに見えたし、この作品の核となるのは「人は生きているだけでいいんだよ」とか「日常のささやかなことに喜びを見出そう」みたいなことだ。いやたぶん、すぐには思い出せないけどそういうメッセージを持っていて感動した作品は過去にはある。だが、というかだからこそ別に何も新しいことはないし、ささやかなことだけでは済まないから人は結婚とか出産とか大きな夢とかのイベントを求めるのではないか。この作品のメッセージがすんなり入ってこないのは、物語が夢とそれを叶えるための才能を既に持っているジョーという主人公でスタートしているからだ。
 
人生ってそれ自体が素晴らしい、みたいなことは、生きる目的を見失っている人や自分を追い詰めているような人に向かって言うことで、今まさに夢を叶えた人に言うことではない。ジョーはミュージシャンを志していることを母親に良く思われていなかったり、前のめりになっていて多少周りが見えていなかったりはするが、別にそれはそこまで悪いことだろうか。ライブが決まって浮足立ってマンホールに落っこちて死んでしまうのだって、不幸で悲しいという以外の何物でもなく、そこに叩き込む必要のあるメッセージなどない。
 
saebou先生のブログを読んでようやくスッキリしたのだが、ジョーみたいな人にこのメッセージを押し付けることは、社会性を押し付けることでもある。人生讃歌とはいえ何もしないでボーッとしていることが良しとされるわけではなく、周りの人とのコミュニケーションとかピザとか落ち葉とかを有り難がろうというのがこの映画の趣旨だからだ。ジョーが念願のライブを終え、「あれ、ずっとこの瞬間を待っていたのに、なんかピンとこないかも…」みたいになったときは、あまりに映画の結論ありきの不自然なリアクションのさせ方にズッコけた。長年ずっとジャズピアニストになりたかったんだから、そりゃステージに立てて嬉しいだろうししばらくは達成感でいっぱいだし、次にまたどんな演奏ができるか楽しみで仕方ないだろう。どこの誰がこんな反応をするというのだ。いやそういう人もいていいのだが、実は教える方が好きだったかも、とかいうならそこの揺れをもっと丁寧にやるべきで、別に迷っている人には見えなかったし、パフォーマーを続けながら教えることだってできなくはない。
 

 
saebou先生の「この作品はpro-lifeの人に好かれそう」という指摘もなるほどで、この「生まれる前の世界」への嫌悪感の大部分はそれか、と思った。私は人は好きで生まれてくるのでも準備して生まれてくるのでもなく、いきなり世界に放り出されたところを何とかして舵を取れるようにならざるを得ないものだと思っている。性格だって興味関心だってその後の環境でいろんな人の影響を受けて形成するものだろうに、生まれる前に博物館のカタログで選びました、なんて言われたら親や周りの人の出る幕がない。
 
もう一つ、指摘があまり見当たらないけど気になったのは、命の扱いの軽さだ(pro-lifeのくせに)。まあ死後の世界と生まれる前の世界が出てくるのだからそんなに死を大げさにすることもできないのは分かるが、急に死んでしまってさあ天国に行ってくださいと言われたら、「これからライブに出られるとこだったのに!」とかより何より、まず「いやまだ死にたくないんですけど!」と多数の人がなるんじゃないのだろうか。ジョー以外の人が皆何の抵抗もせず天国と思しき所に行こうとしているのは、どうしても気味が悪かったし不自然に感じた。ちょっと考えれば本来脱走者続出で天界大混乱、魂の勘定係過労死、というよりセキュリティガチガチの物騒な世界になるのが想像できる。まあそれを避けるために天界のキャラたちはあんなに仕事ができない感じにしたのだとは思うが。
 
ハーバード大学の英語教授によるThe New Yorkerの記事を読んで、この命に関する考えは別の側面から強化された。床屋でジョーに嫌味を言ってくるポールというキャラクターは、その後ジョーの魂を天国に引き戻そうとする勘定係にジョーと間違えられ、一瞬魂を抜かれてしまう。そのままいけばそれは死を意味するが、勘定係は間違いに気付いて魂をポールの体に戻し、「ミスは起こるものさ、君はまだ死なないよ、そんな加工食品ばかり食べ続けなきゃね」と軽いノリでごまかす。私は鑑賞時「おっそろしいことするなあ」くらいしか思わなかったのだが、記事ではこのシーンが、この映画が描こうとしなかった世の中に無視されている黒人の存在、奴隷制の歴史、警官の間違いで命を奪われる黒人の恐怖を見せてしまっていると書いており、ジョーダン・ピールの『Get Out(ゲット・アウト)』で主人公が催眠術にかかった時に「沈んだ地」に落ちるシーンと比べてすらいる。
 

 
私はこの記事を読んだ後にゲット・アウトを観たのだが、この2作品を比べている人はほかにもちらほら見られる。Hyperallergicというサイトのレビューでは、「ゲット・アウトが文化的教養となった時代に、白人女性の声が黒人男性の体を動かすという設定をなぜ採用してしまったのか」と疑問を呈している。
 

 
ここでまた思い出したのがsaebou先生のブログの『TENET テネット』評だ。
 
実はこの『TENET テネット』、『ゲット・アウト』で批判されているような態度をそのまんまやっているような作品なのではないかと思う。〜中略〜この作品は人種とか性についての問題を掘り下げたりするようなことは全くしておらず、主人公が人種差別に直面する場面は一切ない。一方でこの空っぽの中心にジョン・デイヴィッド・ワシントンという黒人男性の身体を据えて、観客にその身体を乗っ取らせようとしている。
 
ソウルフル・ワールドでは、主人公は空っぽではなくちゃんとストーリーがあるのに、その体をまだ生まれる前の魂・22に乗っ取られる。そのまま劇中大部分で黒人の主人公の体を白人女性(しかもよりによってティナ・フェイ)の声で動かし、主人公は青白い姿か猫の姿にし、最終的には主人公自身のジャズピアニストという夢より22の気付きである“人生のささやかなこと”を優先させる。
 
この作品への批判として決して珍しいものではなかったようなのだが、この物語の本当の主人公はジョーではなく22であって、ピクサー初の黒人映画!なんて喜んでいる場合ではないのだ。Polygonの記事によると、そもそもこの作品は22の物語に後からジョーを足したものらしい。これを知ると、すべてが腑に落ちる。ソウルという言葉がいかに黒人文化の中で重要な意味を持つかをを分かった上でタイトルに冠し、黒人の共同監督・脚本家や著名ジャズミュージシャンのコンサルタントを据え、音楽だけでなく仕立て屋や床屋の描写など黒人文化にかなり気を遣ったからといって、「黒人文化を描いた作品」にはならない。人種などを越えたユニバーサルな(でも白人声の)魂の成長の物語を描く上で、文化的要素として利用されたのが黒人というだけなのだ。
 
魂の話を描くことや黒人文化を単なる一要素として描くことがいけないのではなく、まだrepresentationの不均衡を是正しようという動きが始まったばかりのハリウッドで「万人共通の」物語、といっても白人目線で用意された世界観の物語のためにマイノリティ文化を利用し、一見それがメインのように見せかけるという構図がグロテスクなのだ。
 

エイサ・バターフィールド君の雰囲気映画量産問題

彼が出ているなら、きっと私好みの映画だろう。エイサ・バターフィールド君にはそう思わせる魅力がある。なんというか、長身だけどひょろっとして童顔で、優しそうな雰囲気を纏っていて、文化系少年をやらせたら抜群の安定感があるのだ。
 
しかし、私は製作者たちがこれを乱用し、「彼を出してサブカルっぽいテーマと若者っぽい苦難と良さげな共演者を合わせればなんかそれっぽくなるでしょ」と安易な企画を連発しているという結論に至った。それは下記4作品を観てのものだ。
 
 

Time Freak

 
 
ソフィー・ターナーが彼女役とあらばこれは観ねばと若干浮足立って再生ボタンを押した『Time Freak』。これは序盤で脱落してしまったのであまりとやかくいう資格はないかもしれないが、ソフィーにフラれたエイサ君がうだうだしている下りが長いのだ。そして、2人には驚くほどケミストリーがない。ソフィーが大人っぽすぎるのだ。
 
普段は奥手だけど頑張って可愛いバーテンダーに声をかけてみる、失恋でうだうだしている、オタクとつるんでいる、タイムマシンを作っている、いかにもエイサ君なら良い感じに演じてくれそうな役だ。今や高校生のオタク役といえばこの人!という感じのスカイラー・ギゾンド君を親友役にキャスティングしたところも良くはあったのだが。
 

Then Came You / Departure

 
 
今度は同じ『Game of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』出身でもアリアとの共演だ。メイジー・ウイリアムズとの相性は非常に良く、恋愛を挟まない友達関係がとても可愛らしい。しかしこれは病気を使ったお決まりのお涙頂戴映画で、末期ガンの役のメイジーに破天荒なことを色々やらせたかったんだろうなというのが透けて見える。
 
エイサ君の役も悲惨な過去を抱えており、そのことやメイジーとの刻々と近づく別れに苦しむ。一方で例のごとくちょっと背伸びして(奔放なメイジーの後押しもあり)大人っぽい美人女性ニーナ・ドブレフにアプローチする。彼女にはタイタス・バージェス演じるGBF(Gay Best Friend)というおまけ付き。今回のオタクポイントは趣味の木彫りだ。
 
タイトルがなぜか2つあるが、『Departure』の方が分かりやすい。もうネタバレも何もないと思うので書いてしまうが、メイジーの天国への旅立ち、エイサ君の精神的成長、空港で働くエイサ君が実際に飛行機に乗る3つのDepartureがかけられていて、劇中最後にドヤァと表示される。
 

The House Of Tomorrow

 
 
今度は両親は飛行機事故で死亡、エコドームにおばあちゃんと暮らし、学校にも通わずホームスクーリングを受けている世間知らずなティーンという設定。ちょっと変化球で来たが、またいかにもじゃないか。ヴィーガンフードしか食べないし、音楽はクラシックかクジラの声しか聴いたことがない。エコドームにツアーで見学に来たうちの一人、ナット・ウルフと友人となり、彼の影響でロックに興味を持つ。
 
これもこの友人の病気を利用した成長モノで、彼は心臓病でいつ倒れてもおかしくないということが分かる。大変な設定が複数重なっていること自体は悪く言いたくないのだが(無理に分かりやすくしようとするのは現実でそういう状況にいる人に失礼)、この映画は両親の不在や若者の病気、エコ暮らしの現実等を掘り下げたいわけではなく、あくまでエイサ君の成長譚のための設定として消費しているだけだ。女性に不慣れな設定ももちろん健在で、友人の妹役であるモード・アパトーが優しく手ほどきしてくれる。
 

Ten Thousand Saints

 
 
極め付けはイーサン・ホークとの親子役。イーサンがこれまたきたぞ、というダメ親父チャンピオンな設定で、主人公が小さい時に浮気相手を妊娠させて家を出て行く。その浮気相手とお腹の子どもはどうなったのかも明かされず(中絶や養子に出すことを匂わせすらする)、主人公が大きくなってエイサ君になった頃には、(たぶん別の)ガールフレンドがいる。そしてなぜかそのガールフレンドの娘ヘイリー(父親はイーサンではない)をエイサ君の元に送ってくる。
 
大した助走もなくエイサ君とヘイリーが現れても2人とも現代の若者にしか見えないのだが、時代は80年代、エイサ君はハードコアにハマっており自身もかなりギターが弾けるという設定がある。父親のせいで荒れているのでドラッグもやる。が、そんなことはすぐ忘れてしまうくらいただ髪型がおかしなエイサ君にしか見えない(私くらいの年代だと00年代のエモ少年に見えてしまう)。多少グレてワルぶっているだけで、いじめっ子にはやられるし女の子には一途だし、だいたいいつものエイサ君だ。
 
序盤に悲劇が起こるので一気に重い展開になり、暗いトーンは続く。でも雰囲気はなんとなくcoming-of-age。悲劇に見舞われるのはマイノリティで、しかもその設定も肌の色を分かりやすくしたかったためだけのような気がして胸糞悪い。
 
途中でエイサ君が加わることになるバンドのメンバーたちはストレート・エッジという文化にかなり傾倒しており、エイサ&ヘイリーも影響を受けていく。このストレート・エッジに馴染みがないのでストーリーがすんなり入ってこないのか、当時こういうシーンで生きてたらもっとピンとくる話なのだろうかと思ったが、どうやらそうでもない。メンバーが傾倒しているのも半分はある事実の隠れ蓑にするためのようなもので、この文化にリスペクトのある作品とは言えない。
 
ヘイリーの母親/イーサンの現ガールフレンド役は『The Bookshop(マイ・ブックショップ)』のエミリー・モーティマーだが、役柄のせいかブリティッシュアクセントがこれ程ムカついた作品はなかった。ヘイリーの可愛さが唯一と言っていいぐらいの救いだったが、非常に不安定で女であることを都合良く利用しすぎた役柄だった。死や生を扱うのに話が雑すぎる。
 
要は『Sex Education(セックス・エデュケーション)』があって良かった、S3楽しみ!という話なのだが、セックス・エデュケーションでのエイサ君も、・大人しくて・オタクで・優しくて・でもちょっと反抗期で・女性に奥手なキャラの域を出ない。我々はエイサ君からのこの雰囲気の安定供給に頼りすぎなのだ。全く違う角度の演技が観られるのを楽しみにしながら、彼の出演作を観続けようと思う。

理想のラブコメを求めて

一年を振り返る頃には年初に観た作品のインパクトは随分薄れているものだが、それでも今年の映画鑑賞は強烈なスタートだったことは覚えている。私史上最強のラブコメ『Long Shot(ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋)』に出会えたからだ。
 
 
ブコメなんてguilty pleasureであって何にも身にならないよな…と以前は思っていたが、ジェーン・スーさんと高橋芳朗さんの連載を読み始めてからは、わりとどんな作品にも学びを見出だせるようになり、ラブコメ好きの自分を肯定できるようになってきた。中でもこの作品を観た興奮を共有できたことがこれまでで一番嬉しかったかもしれない。とにかく、男女のパワーバランス、メッセージ性、テンポ、何においても優れているのだ。
 

 

この連載で提唱されている「ラブコメ映画に必要な4つの条件」は、
 
1. 気恥ずかしいまでの真っ直ぐなメッセージ
2. それをコミカルかつロマンチックに伝える術
3. 適度なご都合主義
4. 「明日もがんばろう!」と思える前向きな活力
 
だ。私は私でいつか世に出てほしい個人的理想のラブコメの条件というものをかねてから妄想していて、それに照らし合わせてロングショットの良さを考えた。
 

➳おかしなご都合主義がない◎

 
スーさん達の条件と同じで、適度なら問題ない。国務長官が自分の面倒を見てくれた元ベビーシッターであるとか、セス・ローゲン演じるフレッドがボンクラのフリしてめちゃくちゃ優秀であるとか、そんなことは必要だからOK。
 
➳過激な下ネタがない(上映会をして盛り上がりたいため)✗
 
これはまったくもってクリアしていない。セス・ローゲンだから仕方がない。むしろ「誰も傷つけない種類の下ネタ」だとのスーさんの言葉でちょっと見直した。
 
➳時代に沿ったテーマ◎
 
これはもう100点満点といっていいだろう。男女のステレオタイプな社会的役割を単に逆転させるだけでなく、その上で女性蔑視の蔓延る社会で本当に対等な関係を築くことはできるのか。さらに本筋を逸れることなく、セクハラ、白人至上主義、環境問題、支持政党による社会の断絶といった今一番刺さる問題を、時に名指しで批判することも臆せずうまく取り込んでいる。
 
➳アラサーの遊び呆けてないタイプの女子が共感できる◯
 
これは『Trainwreck(エイミー?、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方)』などを観ていて思ったことだが(この作品自体は大好き)、主人公が遊び人タイプ、というかcommitment issueのある女性だったりすると、個人的に全く共感することができない。シャーリーズ・セロン演じるシャーロットはルックスもキャリアもまったくもって身近に感じられるものではないが、誠実な人柄で、仕事が忙しすぎて恋愛関係が続かないことに悩んでいる。こういう女性の方が共感しやすい。また、ティーンや20代前半、あるいは結婚も離婚も経験した熟年者が主人公だったりすると、もう共感とかいうレベルではなくなってしまう笑。
 
さらに言えば、この映画では感情移入の対象はシャーロットよりもフレッドがメインだ。個人的に、同じ記者業で中古マンションをリノベしたような洒落た部屋に住んでいるフレッドへの親近感はものすごく高い。画面の外でどんな交際関係があったかは知らないが、昔ベビーシッターをしてくれていた頃からシャーロットに一途な思いを抱いている一方で、華々しいキャリアを持ち美人の彼女に劣等感もある。シャーロットが彼に目を付けるのもルックスとか単に優しいとかいうところではなく、仕事が優秀だからというのが良い。
 
➳心を鷲掴みにしてくれる親しみやすい相手役◯
 
というわけでこの作品の場合の「相手役」というのはほぼシャーロットなわけだが、いつ何時も誠実でエレガントで、でもフレッドには弱みも見せるし一緒にはっちゃけるシャーロットは、いささか完璧がすぎる。
 
まあそれは贅沢だとして、やっぱり私自身は男性を相手役として見るのでフレッドについて言えば、鷲掴み、というほどのキュンキュンポイントがあるかと言えばそうではないかもしれない。とにかく親しみやすさ抜群で、でも本当に真っ当で言うことはちゃんと言ってくれる、というのはめちゃくちゃポイントが高い。「wantとneedは違う、必要なのはチャニング・テイタムではなくセス・ローゲンだ」と言っていたスタンダップコメディアンがいたが、フレッドはまさにneedを体現したようなキャラかもしれない。そういうフレッドに惚れるシャーロットもまたどこまで好印象積み上げてくるんだと思う。
 
➳インテリアやファッションはしっかり楽しめる△
 
ブコメお決まりの、主人公がお買い物に行ったり大事なデートの前に部屋でいろんな服を試してみたりするお着替えタイムがないのはちょっと残念だ。2人の距離感をファッションで表しているというのは件の連載を読んでなるほどだったのだが、やはりフレッドが正装する前にどんなスーツを着ようかポップな音楽をBGMにお店で色々悩みながら試してみる、というのは画的に地味すぎるのだろうか。シャーロットは職業柄正装すること自体に慣れすぎていて何時もエレガントなので、ドレスのインパクトが少ない。
 
代わりにフレッドがジョークでおかしな衣装を着るというシーンはあったのだが、あれよりはやはりお着替えタイムが欲しかった。
 
フレッドの家は、前述の通り中古マンションをリノベしたような小洒落た部屋で、ひどく散らかっていたりはしない。やはりボンクラのように見せかけて、彼は優秀だしちゃんとしているのだ。ただ心弾むほどポップかといったら違うし、世界を飛び回っているシャーロットの家もほとんど出てこない。やはりラブコメには『Ameri(アメリ)』や『Clueless(クルーレス)』のようなポップさがほしい。
 
➳GOTG並の個性を持った音楽ラインナップ◯
 
GOTGというのは『Guardians Of The Galaxy(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー)』のことだ。この映画のすごいところは、選曲センスが優れているのはもちろんなのだが、「あっこれGOTGで使われる曲っぽい」とその時代性とテイストを確立しているところにある。『Avengers: Endgame(アベンジャーズ/エンドゲーム)』を観た人なら、『Rubberband Man』が流れた瞬間に「あっガーディアンズきた」となった感じが分かるだろう。ラブコメに限らず、こんな音楽センスの作品がまた現れないかな、と私は常に待っている。
 
ロング・ショットは個性を確立するというよりは、手堅い選曲のイメージだ。『プリティ・ウーマン』への目配せもあるし、クラブミュージックで踊るし、旬のアーティストによるクラシックなラブソングカバーもある。何はともあれBoyz II Menが出てくる時点でもう100点、エンディングがRobynの『Dancing On My Own』でエモいので200点としてしまいたいところはある(ドラマ『GIRLS』視聴者にはわかる)。
 
➳仕事のリアルさ◯
 
行き過ぎたご都合主義と一緒で、なぜその職業の設定なのか大して意味がなかったり、職場の描写にリアルさが欠けていると萎える。仕事のシーンはほとんどなくて恋模様だけでもいいのだが、現実の生活はそうはいかないし、私が仕事が好きだからだ。
 
国務長官のシャーロットの仕事についてはとてもどうこう言える立場ではないが、少なくとも違和感を感じた場面はない。きちんと数字を根拠にさまざまな政治的問題を話し合う様は、むしろ現実の政治家よりちゃんと優秀に見えた。
 
フレッドも白人至上主義団体に潜入取材とか破天荒ではあったが、特にこれはジャーナリストとしてないだろうという点はなかった。欲を言えば、もっと彼の仕事が観たかった。
 
➳適度なカルチャーリファレンス◎
 
欧米の作品はあれこれポップカルチャーに言及するのが醍醐味でもあるが、この作品では特に前年の二大エンタメ巨塔と言ってもいい『Game of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』とMCUに触れる場面があったので楽しかった。こういう時、どちらも観ていてよかったと思える。
 
これらの点を総合してロングショットを基準にすると、私がさらにラブコメに求めているのは
➳心を鷲掴みにする相手役
➳可愛いファッションとインテリア
➳個性的な音楽
➳仕事の詳細描写
となる。こんなにあれこれ期待に応えてくれる作品はいつ現れるだろうか。