Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

Black LivesではなくAll Livesの話になっている『Soul(ソウルフル・ワールド)』

私は普段から面白くなかった作品には面白くないとズバズバ言う方だが、周りの9割9分くらいがあまりに絶賛している作品の良さが分からなかった時は多少弱腰になる。昨年は映画『The Half Of It(ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから)』(Netflix)がそれだった。いや別に嫌いというほどだったわけではなく、個人的ワーストは『Bad Boys for Life(バッドボーイズ フォー・ライフ)』だったが、あれはけっこうこき下ろしている人もいたので私も安心して心置きなくこき下ろしている。あとついでに言うがドラマ『Modern Love(モダン・ラブ)』も評価され過ぎだと思う。

 
 
印象的にハーフ・オブ・イットと同レベル、たぶん視聴者数も考慮するとそれ以上の高評価を得ている『Soul(ソウルフル・ワールド)』(Disney+)を観た直後の私の感想は、「そのメッセージで皆そんなに感動できるの…?」だった。トレント・レズナー&アティカス・ロスの音楽やニューヨークの街中の質感は素晴らしくはあったのだが、肉体から抜けた魂の青白いQooみたいな造形も生前の世界の管理人(?)「ジェリー」たちの抽象画みたいなデザインも単なる手抜きに見えたし、この作品の核となるのは「人は生きているだけでいいんだよ」とか「日常のささやかなことに喜びを見出そう」みたいなことだ。いやたぶん、すぐには思い出せないけどそういうメッセージを持っていて感動した作品は過去にはある。だが、というかだからこそ別に何も新しいことはないし、ささやかなことだけでは済まないから人は結婚とか出産とか大きな夢とかのイベントを求めるのではないか。この作品のメッセージがすんなり入ってこないのは、物語が夢とそれを叶えるための才能を既に持っているジョーという主人公でスタートしているからだ。
 
人生ってそれ自体が素晴らしい、みたいなことは、生きる目的を見失っている人や自分を追い詰めているような人に向かって言うことで、今まさに夢を叶えた人に言うことではない。ジョーはミュージシャンを志していることを母親に良く思われていなかったり、前のめりになっていて多少周りが見えていなかったりはするが、別にそれはそこまで悪いことだろうか。ライブが決まって浮足立ってマンホールに落っこちて死んでしまうのだって、不幸で悲しいという以外の何物でもなく、そこに叩き込む必要のあるメッセージなどない。
 
saebou先生のブログを読んでようやくスッキリしたのだが、ジョーみたいな人にこのメッセージを押し付けることは、社会性を押し付けることでもある。人生讃歌とはいえ何もしないでボーッとしていることが良しとされるわけではなく、周りの人とのコミュニケーションとかピザとか落ち葉とかを有り難がろうというのがこの映画の趣旨だからだ。ジョーが念願のライブを終え、「あれ、ずっとこの瞬間を待っていたのに、なんかピンとこないかも…」みたいになったときは、あまりに映画の結論ありきの不自然なリアクションのさせ方にズッコけた。長年ずっとジャズピアニストになりたかったんだから、そりゃステージに立てて嬉しいだろうししばらくは達成感でいっぱいだし、次にまたどんな演奏ができるか楽しみで仕方ないだろう。どこの誰がこんな反応をするというのだ。いやそういう人もいていいのだが、実は教える方が好きだったかも、とかいうならそこの揺れをもっと丁寧にやるべきで、別に迷っている人には見えなかったし、パフォーマーを続けながら教えることだってできなくはない。
 

 
saebou先生の「この作品はpro-lifeの人に好かれそう」という指摘もなるほどで、この「生まれる前の世界」への嫌悪感の大部分はそれか、と思った。私は人は好きで生まれてくるのでも準備して生まれてくるのでもなく、いきなり世界に放り出されたところを何とかして舵を取れるようにならざるを得ないものだと思っている。性格だって興味関心だってその後の環境でいろんな人の影響を受けて形成するものだろうに、生まれる前に博物館のカタログで選びました、なんて言われたら親や周りの人の出る幕がない。
 
もう一つ、指摘があまり見当たらないけど気になったのは、命の扱いの軽さだ(pro-lifeのくせに)。まあ死後の世界と生まれる前の世界が出てくるのだからそんなに死を大げさにすることもできないのは分かるが、急に死んでしまってさあ天国に行ってくださいと言われたら、「これからライブに出られるとこだったのに!」とかより何より、まず「いやまだ死にたくないんですけど!」と多数の人がなるんじゃないのだろうか。ジョー以外の人が皆何の抵抗もせず天国と思しき所に行こうとしているのは、どうしても気味が悪かったし不自然に感じた。ちょっと考えれば本来脱走者続出で天界大混乱、魂の勘定係過労死、というよりセキュリティガチガチの物騒な世界になるのが想像できる。まあそれを避けるために天界のキャラたちはあんなに仕事ができない感じにしたのだとは思うが。
 
ハーバード大学の英語教授によるThe New Yorkerの記事を読んで、この命に関する考えは別の側面から強化された。床屋でジョーに嫌味を言ってくるポールというキャラクターは、その後ジョーの魂を天国に引き戻そうとする勘定係にジョーと間違えられ、一瞬魂を抜かれてしまう。そのままいけばそれは死を意味するが、勘定係は間違いに気付いて魂をポールの体に戻し、「ミスは起こるものさ、君はまだ死なないよ、そんな加工食品ばかり食べ続けなきゃね」と軽いノリでごまかす。私は鑑賞時「おっそろしいことするなあ」くらいしか思わなかったのだが、記事ではこのシーンが、この映画が描こうとしなかった世の中に無視されている黒人の存在、奴隷制の歴史、警官の間違いで命を奪われる黒人の恐怖を見せてしまっていると書いており、ジョーダン・ピールの『Get Out(ゲット・アウト)』で主人公が催眠術にかかった時に「沈んだ地」に落ちるシーンと比べてすらいる。
 

 
私はこの記事を読んだ後にゲット・アウトを観たのだが、この2作品を比べている人はほかにもちらほら見られる。Hyperallergicというサイトのレビューでは、「ゲット・アウトが文化的教養となった時代に、白人女性の声が黒人男性の体を動かすという設定をなぜ採用してしまったのか」と疑問を呈している。
 

 
ここでまた思い出したのがsaebou先生のブログの『TENET テネット』評だ。
 
実はこの『TENET テネット』、『ゲット・アウト』で批判されているような態度をそのまんまやっているような作品なのではないかと思う。〜中略〜この作品は人種とか性についての問題を掘り下げたりするようなことは全くしておらず、主人公が人種差別に直面する場面は一切ない。一方でこの空っぽの中心にジョン・デイヴィッド・ワシントンという黒人男性の身体を据えて、観客にその身体を乗っ取らせようとしている。
 
ソウルフル・ワールドでは、主人公は空っぽではなくちゃんとストーリーがあるのに、その体をまだ生まれる前の魂・22に乗っ取られる。そのまま劇中大部分で黒人の主人公の体を白人女性(しかもよりによってティナ・フェイ)の声で動かし、主人公は青白い姿か猫の姿にし、最終的には主人公自身のジャズピアニストという夢より22の気付きである“人生のささやかなこと”を優先させる。
 
この作品への批判として決して珍しいものではなかったようなのだが、この物語の本当の主人公はジョーではなく22であって、ピクサー初の黒人映画!なんて喜んでいる場合ではないのだ。Polygonの記事によると、そもそもこの作品は22の物語に後からジョーを足したものらしい。これを知ると、すべてが腑に落ちる。ソウルという言葉がいかに黒人文化の中で重要な意味を持つかをを分かった上でタイトルに冠し、黒人の共同監督・脚本家や著名ジャズミュージシャンのコンサルタントを据え、音楽だけでなく仕立て屋や床屋の描写など黒人文化にかなり気を遣ったからといって、「黒人文化を描いた作品」にはならない。人種などを越えたユニバーサルな(でも白人声の)魂の成長の物語を描く上で、文化的要素として利用されたのが黒人というだけなのだ。
 
魂の話を描くことや黒人文化を単なる一要素として描くことがいけないのではなく、まだrepresentationの不均衡を是正しようという動きが始まったばかりのハリウッドで「万人共通の」物語、といっても白人目線で用意された世界観の物語のためにマイノリティ文化を利用し、一見それがメインのように見せかけるという構図がグロテスクなのだ。