Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

『CODA(コーダ あいのうた)』について知っておきたいろう者の視点

Appleサンダンス映画祭史上最高額の2500万ドルで配給権を獲得したシアン・ヘダー監督の『CODA(コーダ あいのうた)』。エミリア・ジョーンズの歌唱力、手話シーンの多さもさることながら、『Sing Street(シング・ストリート 未来へのうた)』のフェルディア・ウォルシュ=ピーロの成長ぶりに感激してしまったこともあり、私の今年の暫定ベストと言えるくらい好きだった。

しかし使い古された表現もツッコミどころも多く、完璧な映画では到底ない。特にろう者やコーダ(Child of Deaf Adults=ろう者の親を持つ聴者の子ども)の方から見て、この映画を好きと言うことは傲慢にならないだろうかと気になってしまって、感想を探してみた。

ざっとツイートやブログ記事、YouTube動画を漁っただけだが、当事者の間でも、この映画への評価はだいぶ分かれている。そして、褒めている人も手放しにすべてを絶賛しているわけではなく、不自然な描写やプロット上の不満を多く指摘している。最終的にこの映画が大好きだという気持ちは今のところ変わらないけれど、この映画を観る上でそうした当事者の視点を共有しておく必要性を感じたのと、それに対して現時点で自分がどう折り合いをつけたのかを記しておこう思ったので、この記事を書いている。

 

ここからは、主にろう者であるJenna Fischtrombeaのブログ

Rikki PoynterのYouTube動画

Deaf Person Reviews CODA (2021) | CODA Movie Review | Film Fridays - YouTube

にあるCODAへの指摘について考える。

 

(※ネタバレレベルの内容は後半にそう注意書きした後に記載した。)

ろう者×音楽という組み合わせ

ろう者や彼らに関わる人がメインキャラクターになる作品では、音楽をテーマにしたものが多い。ドラマーが聴力を失う『Sound of Metal(サウンド・オブ・メタル)』も、ミュージシャンとろう者が恋に落ちる『Listen to Your Heart』も、聴力を失うティーンがミュージシャンに出会う米Huluオリジナル作品『The Ultimate Playlist of Noise』も、日本のドラマ『オレンジ・デイズ』もそうだ。

CODAの主人公は、ろう者の両親と兄のもとに生まれた家族で唯一の聴者(コーダ)のルビー(エミリア・ジョーンズ)。音楽は以前から好きだったようで、家族が気にしないのを良いことに、家業である漁の最中も家でも大声で歌ったりレコードをかけたりしている。なぜか高校の最終学年で今さら合唱部に入ることを決め、急に音楽学校を目指すことにする。

劇中では、母親のジャッキー(マーリー・マトリン)が「私が盲者だったら画家を目指したわけ?」と言うシーンまである(このシーンは単に意地悪で嫌だと前述のブログでは書いているが、障害者を聖人化しないという意味では良いのかなと感じた)。

Poynterは、「ろう者だって音楽を楽しめるし、ろう者のラッパーやギタリストやピアニストだっている。ろう者の話になると音楽を結びつけようとするのはうんざり。ほかの職業にしたって良いのに」と話している。

CODAは歌唱シーンが見せ場となるので今の話のまま音楽とは切り離せないが、ティーンの成長物語と考えれば音楽以外の道に進ませることもできただろう。マイノリティに属する人を描く話が増えること自体はとても良いことだが、その困難に立ち向かう話ばかりでなく、当たり前に存在する人として型にはめない描写をすることが次の一歩になる。

主人公はコーダ当事者ではない

この映画の最大の功績は、原作のフランス映画『エール!』とは違い、ろう者の役どころに当事者の役者を配したことだ。しかし最初からこの方針だった訳ではなく、監督の交渉や、先に母親役をオファーされたマーリー・マトリンの「他のろう者役も当事者でなければ自分は出ない」という粘りがあったらしい。これはろう者唯一のアカデミー賞受賞俳優(1987年の『Children of a Lesser God(愛は静けさの中に)』)である彼女だからできたことだろう。

CODAは主人公と家族の関係がメインなので、手話だけで日常会話をするシーンがたくさんある。性の話を躊躇なくする両親も、スマホアプリやバーで女の子をナンパしてばかりの兄も、ろう者のステレオタイプに嵌まらないユニークな役柄だ。

一方、ルビー役のエミリア・ジョーンズはコーダではなく、9カ月かけて手話を覚えたという。

素人目にはわからないが、やはり(手話が第一言語の)コーダが使っているような流暢な手話には見えないらしい。コーダのように手話が駆使できかつ歌唱力のある人材を探すことは難しいのかもしれないが、手話を使う人にとって主人公の手話が初心者に見えるというのは演技が下手に見えることと同義で、手話がわからない聴者であれば気づかないんだからと無視できる問題ではないだろう。

サウンド・オブ・メタルで一躍注目されたポール・レイシーはコーダで、私もこの言葉は彼のインタビューを読んで知った。彼の役はもともとろう者の俳優のみを対象に募集されていたのに途中で「ろう者を推奨する」に文言が変わったらしく、レイシーが抜擢されたことには批判もあった。

マイノリティ役のキャスティングには、演技の質だけでなく偏見や雇用機会の問題も関わってくる。ルビー役をコーダでない役者が演じることが絶対的に悪いとまでは言い切れないが、この議論が今後の映画界に良い影響を持つと信じたい。

なぜこれほどルビーに頼らないといけないのか

劇中、ルビーは何かと両親や兄のコミュニケーションの補助をしている。獲った魚の値段交渉、病院の医者とのやりとり、おばあちゃんとの電話、マスコミからの取材など。そうした“家族サービス”と歌の練習との両立に悩むところが中盤のメインプロットだが、ここは私でも不自然に感じた。

両親も兄もルビーが生まれる前からこの街で漁をして暮らしているのだから、自分たちでどうにかする術はあるだろう。ついつい娘に頼ってしまうというのはわかるが、明らかに学業に支障をきたしているのだから、大声で喧嘩するまでもなく以前のやり方に戻そうとするはずだ。「コーダであることの苦労」をことさら話の中心に持ってこようとする安易さはいただけない。

ろう者コミュニティの不在についても多くの人から指摘されている。ジャッキーは「月に一度会いに行くろう者の人たち以外に友だちがいない」とルビーに言われる場面があるが、そこは人付き合いを好まない変わった夫婦という言い訳も通用するかなと思う。しかし舞台はほかに一人もろう者や手話通訳者がいないような田舎ではない。

変なしゃべり方をするはずがない?

ルビーは「小さい頃に変なしゃべり方をしていてからかわれた」と話しているが、それが起こり得るのは家族が手話だけでなく音声での発話もする人の場合で、家族のしゃべり方を真似するからということらしい。CODAの両親と兄はしゃべらないので、それは当てはまらないのだという。(※追記)しかしこれは各家庭によってもかなり事情が違いそうなので一概には言えないかもしれない。

 

※以下は特にクライマックスに関するものなので、鑑賞後に読んでもらった方が良いかもしれない。

 

突然“無音”にする演出

私にとって最もショックだった指摘は、ルビーが合唱部のコンサートでマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)とデュエットする最初のクライマックスについてのものだった。

ルビーの歌を聴いたことのない家族は、ルビーは本当に歌が上手いのか、今何が起きているのかと困惑顔でコンサートに参加している。合唱部全員で歌う数曲が終わり、ルビーとマイルズが2人で練習していたデュエット曲"You're All I Need To Get By"を歌い出すと、サビにかかるあたりですべての音が無音になる。誰もが楽しみにしていたであろう肝心の曲のいいところを聞かせず、唐突に家族の視点に鑑賞者を置く演出は、とても心動かされるものだった。頭では彼らが聞こえないことはわかっているつもりでも、どこかそれがどういう状態なのか想像しきれていなかった自分がいたのだ。

 

が、Fischtrombeaはこれが大嫌いだったという。ろう者が人の歌を聞くとき、単に音が全くなくなるだけではない。視覚情報から得られるものはとても大きいのだという。CODAではこれが映像で表せていたとはいえず、何なら単に音がないだけではなく視界までぼやけていた。ルビーとマイルズの方より、周りの観客の反応を見ることで情報を得ているような見せ方だった。

このシーンは、今でも何度見返しても泣けてくる。でも同時に、聴者にとって感動的で一見ろう者に寄り添っているように見えるシーンが、ろう者にとって不快にすらなり得ると知ることができて良かったと思う。

歌いながら手話で歌詞を伝える

もう一つのクライマックスは、ルビーがバークリー音楽学校への入学試験で"Both Side Now"を歌う場面だ。応援のため試験会場にこっそり潜り込んだ家族を確認したルビーは、彼らにも歌詞がわかるように手話を交えながら歌う。

この手話表現の"豊かさ"も相まって審査員は感心したように見えるし、合唱部のコンサートでも手話をすればよかったのにと私は思ってしまったのだが、Fischtrombeaは「聴者は必要のない歌詞の手話通訳に意味や感動を見出すことが大好き」と皮肉る。歌詞カードがあればそれでいいというのだ。

歌詞の手話通訳への"盲目的崇拝"については、さらにまるまるその問題点を指摘するために書かれたSara Novićの記事がある。

少し前に私のTLでも話題になっていたCardi Bの“WAP”の手話通訳動画。聴者の白人女性によるこのパフォーマンスがまたたく間にviralになり多くのメディアでも取り上げられたのに対し、

そうしたメディアの記事はその一カ月ほど前にろう者の黒人女性Raven Suttonが投稿した手話通訳動画も、その他大勢のろう者による同様の動画も取り上げなかった。

また、この手話通訳についてろう者がどう思うかコメントを取ったメディアもなかった。
Novićは、これは聴者の“救世主コンプレックス”による現象だと指摘している。

While the determination that our language is “cool” or “beautiful” is just fine, it becomes problematic when hearing people give themselves the authority to decide what is good, what isn’t, and who is allowed to have access. How do hearing viewers know whether a specific interpretation of “WAP” is an effective translation if they aren’t fluent ASL speakers? Answer: they don’t.

私たちの言葉が「かっこいい」とか「美しい」と決めるのは良いが、聴者が手話の良し悪しや誰がアクセスを持てるのかを決めることは問題だ。WAPの特定の歌詞の訳が的確かどうかなんて、手話を知らない聴者はどうやったらわかるのだろうか?わからないのだ。

ろう者を包括することのない手話の“崇拝”は、文化盗用になり得る。Novićは、これは「見た目の美しさだけで漢字の意味を知らずにタトゥーを彫ることと同じ」だと言っている。

ろう者が絞り出すように発する音声

最後に、ルビーが音楽学校に入学するために旅立つラストシーンについて言及しておきたい。別れを惜しんでなかなか出発できないでいるルビーに父親のフランク(トロイ・コッツァー)は声を出して「Go」と言う。これはいくらなんでも聴者の上から目線がすぎるだろうと私も観ながら思った。コッツァーはこのシーンのためにこれだけ言えるように練習したらしい。

Fischtrombeaは「2人とも手話が達者なのだからしゃべる必要などない」と一刀両断する。

 

ほかにもろう者・聴者以前のプロットの問題は多数あるが、観ながら気づけるものも多い。ろう者3人のキャスティングに始まり、監督も手話を学んできたこと、撮影でのさまざまなコミュニケーションの配慮、すべての劇場上映に字幕を付けたことなど、進歩的な点もたくさんある。

賞レースでも健闘してほしいと思うが、ろう者やコーダからの指摘が無視されることなく、今後のより包括的なrepresentationにつながってくれることを願う。