Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

『シャドウ・イン・クラウド』を観て母性とフェミニズムについて考えた話

※もう記事タイトルでネタバレしているようなものだけど、気になる方は観てからどうぞ

 

クロエ・グレース・モレッツ主演のニュージーランド映画『Shadow in the Cloud(シャドウ・イン・クラウド)』を観た。予告編から明かされているが、クロエが空中で日本軍やモンスター(グレムリン)と戦う話だ。評判が良く、フェミニスト映画としても持て囃されていたので気になった。

 

実際に「ウソでしょ?!」とツッコみたくなるような大胆な戦闘シーンがいくつかあり楽しんだ部分もあったのだが、私はこの作品をフェミニスト映画とは呼びたくない。そしてそんな感想を話したら、かなりの反発を受けた。この作品のフェミニズム的側面を認めない私はおかしいのだろうか? 私が持った違和感を持つ人はほかにもいるようなのに、なぜその点はこんなに軽視されるのだろうか? とかなり考え込むことになったので、ちゃんともう少しインプットした上で文章にしたいと思った。

 

 

 

極端にミソジニスティックな言葉を浴びせまくる

 

クロエ演じるモード・ギャレットは、機密物資を運ぶためと言ってオークランドからサモアに向かう軍機に乗り込む。男性のみのクルーたちは突然現れた彼女を舐めた態度を取り、機体下部の銃塔に押し込めた彼女に聞こえていないと思い込んだまま「あれはヤレる」みたいなかなり過激なミソジニー発言をけっこうな時間続ける。モードが聞こえていることをさらっと伝えると彼らは笑ってごまかす。これはもう映画としての好みだし、女性軍人が実際に言われてきたことだと言われればそうですかとしか言いようがないが、この描写は単純に古い。

 

機密鞄の中身、なぜそれにした

 

モードは攻撃してきた日本軍機を撃墜するが、機体の外にモンスターを目撃し、そのことを必死でクルーに伝える。彼らはなかなか信じず、モードの身元と機体の不調を怪しんだ機長の命令で、機密鞄を開けて中身を見てしまう。中には赤ん坊が入っていた。

 

モードは夫からひどい虐待を受けており、そんな中で関係を持ったクルーの一人ウォルター・クエイド(彼だけは唯一モードに親切だった)との間に子どもを授かっていた。子どもの存在はクエイドにも知らせておらず、夫から逃れるために任務を装って乗り込んできたのだ。子どもには看護師か誰かに頼んで鎮静剤を打ってもらったという(!)。

 

この鞄の中身が判明した時点で、私の中ではかなりこの作品への期待が消え失せた。これまで古さはあれど、世の中のどんな組織より男社会であろう軍の中で頑張る強い女性軍人を描くのだと思っていた。女性の強さが戦争に利用されるというシチュエーションな時点でかなり危ういものがあるが、メインの相手はモンスターみたいだし、と思っていたら、これは“母性神話”だったのだ。

 

その後、モードは何が何でも赤ん坊を守り、臆せずモンスターと戦う超人と化す。男たちの頼りなさが強調され、ひたすら「母、強し」なままなんの躊躇もなく最後までストーリーが進む。

 

「母性神話」の影響の軽視

 

私が一番引っかかったのは、こんなに「ザ・母性神話」な話が、なぜフェミニスト作品として持て囃されるのかということだ。この展開は、この作品のほかのフェミニズム的要素を無に帰すようなものではないのか。フェミニズムは母性神話を丁寧に解体してきたのではなかったか。それとも世の中はまだかなりの母性主義なのか。そこの自信がなかったために、「母の超人的な強さみたいなものも女性のエンパワメントの一つなのでは、フェミニズムと対立しないのでは」(うろ覚えです)と言われて咄嗟に返せなかった。「母の強さ」を描くことに反発を覚える自分は「母の敵」なのだろうかとまで悩んだ。

 

しかしやはり、「母性を強さとして描くこと」=「母性があれば超人的に強くなれると描くこと」ではない。子どもができたことで、「この子を守るためなら何でもできる」と今までなかった力を感じる人はいるだろう。それを作中唯一の女性に背負わせることが表象として有害なのだ。

 

「母性」は生まれながらにして女性全員に備わっているものではないし、子どもが生まれたら自動的に身につくものではないし、母は皆超人ではない。そのような言説や表現は散々女性を苦しめてきた。それがなぜここでは見逃される、または軽視されるのだろうか。

 

最近では、Netflixアニメ『The Mitchells vs. the Machines(ミッチェル家とマシンの反乱)』でも、母親のキャラクターが息子のピンチに急に超人化するという描写があった。同じNetflixの『The Lost Daughter(ロスト・ドーター)』のような母性に疑問を呈する作品がまだまだ「タブーに切り込んだ」と評されるくらいなのだから、私の見通しが甘いのかもしれない。

 

これについて考えていたとき、Apple TV+のドラマ『Pachinko パチンコ』の第6話を観た。主人公の一人スンジャの自宅での出産シーンで、あまり親しくなかった近所のおばちゃんが「あんまりうるさいもんだから手伝いに来たよ!」と出産を手助けする。ああ、私が見たい母の強さ、連帯とはこういうものだと思った。

 

母になった人の経験やそれにもとづいて獲得した強さは存在するし、また実社会で母親が置かれる立場は父親とも違うので、一口に「親」としてそこを透明化するのも違う。

 

私は子どもがいるいない関係なくただ強い女性の話がもっと観たいし、母としての経験にエンパワメントされる女性の話も、悩む女性の話ももっと観たい。

 

最後のシーンについて

 

『シャドウ・イン・クラウド』では最後にモードがまるで聖母のように赤ん坊に授乳するシーンがある。私がそれを「サービスショット」だと書いたことについても反論されたが、これはこの作品を「フェミニスト映画」と捉えられているか否かに尽きると思う。

 

私だって授乳シーンでかなりの露出があるからといってすべてのそういうシーンに反発するわけではない。むしろ文脈によってはエンパワメントにすらなり得る描写だと思う。この映画では、残念ながら「こういうのを入れとけばフェミニズムになるんでしょ」と勘違いで(あるいは本気で母性主義を信じて)放り込まれた母性神話を利用したサービスショットにしか見えなかったという話だ。

 

脚本家への告発について

 

一応言及しておくと、この映画の脚本にクレジットされているマックス・ランディスは、複数の女性から性的暴行を告発されている。ランディスはプロデューサーから外され、ロザンヌ・リャン監督が脚本のリライトを行ったが、脚本のクレジットからはランディスは外せなかったという。

 

最終的にどこまでが彼の仕事なのかわからないので、そういう人の脚本をもとに映画を作ったことの是非自体は置いておく(最初の告発が2017年、クロエ・グレース・モレッツの出演が発表されたのが2019年なので、止める・イチから練り直すことはできたのではとは思う)。その上で、ここでは最終的なアウトプットのみを批判している。

 

 

そういえば、女性ばかりのアクション映画『The 355355)』でペネロペ・クルスが演じた役は、メイン5人の女性の中で唯一子どもがいて、唯一いわゆる戦闘能力を持たない人だったなと思い出した。あれはあれで「守るものがいると弱い」みたいで、最終的には彼女も銃を持たされてはいたけれど、どうしてこう極端なのだと思う。5人も多様な女が出ている作品でこそ、母の強さも存分に描けるのに。(当たり前だが、武力だけが強さだと言っているわけではない)

 

母性についてフェミニズムの中での捉え方を掘り下げたいと思い読んでいる『母性の抑圧と抵抗』(元橋利恵著、晃洋書房)はかなり面白い。戦略的母性主義という言葉を知れてとても良かったと思う。