Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

Cultural Representationについてつらつら考える

*English follows

「ホワイトウォッシュ」という言葉は一部の人にのみ知られている言葉かと思っていたが、ここ何年かでかなり市民権を得たようだ。とりわけそれを実感したのは『リトル・マーメイド』実写化キャスティングのニュースだった。

ただこれは大坂なおみ選手のCMのときのような「ホワイトウォッシュ」問題ではない。アニメでは白人に見えたアリエルを黒人女優が演じるというニュースに、「それはブラックウォッシュでは」「いやブラックペイントというのでは」「ティアナやポカホンタスやムーランを白人が演じたら怒るくせに、逆差別だ」といったコメントが並び、私は頭を抱えてしまった。要は、表面的な横文字言葉が輸入されただけで、その背景や文脈はまだまだ理解されていなかったのだ。

今回の件で改めてエンタメ作品におけるcultural representationを考えて得たことがあるとすれば、この問題はケースによって様々な背景の違いがあること、わかりやすく白黒付けられるものではないということ、社会的な視点と個人の立場による見方の違いを切り離すのは意外と難しいということだ。

リトルマーメイドはファンタジーだが、アリエルを黒人が演じるなら、その父であるトリトン王も黒人でないとおかしいのか。そもそも人魚の肌の色はどのように遺伝するのか。

アラジンのジャスミン役はインド系のナオミ・スコットが選ばれたことで批判されたが、候補と報道されたイエメンとエジプトの血を引くリトル・ミックスのジェイド・サルウォールなら同じイギリス育ちでも良かったのか。アラブ系の血が入っていても肌が白人と変わらなかったらどうなのか。

LGBTのキャラクターは当事者が演じるべきなのか。それが当たり前になってしまったら、カミングアウトできない俳優はチャンスを得られないことになるのに。

 

原作では日本人(名のサイボーグ)だったキャラクターを白人が演じて批判された映画に『ゴースト・イン・ザ・シェル』(原作:攻殻機動隊)がある。私は原作を知らないので特に思い入れはないが、日本人あるいは日系の女優主演でこの作品が作られていたら、ハリウッドで自国の文化がrepresentされる誇らしさをより感じることができたのにとは思う。

そして配信時にこれと比較されたのが、NetflixサイバーパンクSFドラマ『オルタード・カーボン』だ。この未来の設定がまたややこしい。人間の精神はデジタル化され、体内のスタックと呼ばれる装置にバックアップされる。精神をスリーヴと呼ばれる別の肉体(ほかの人の肉体から精神を抜いたものも、人工的なものもある)に転送すれば、自身が生まれ持った肉体は死んでも、精神は生き続けることができる。スリーヴはお金を積まないと購入や選択ができないので、本来の民族や性別と違う肉体に転送されることは珍しくない。 かといって、誰も属性や見た目を全く気にしなくなるほど遠い未来の話ではない。

日本人と東欧人の血を引く主人公のタケシ・コヴァッチは、250年の「保存刑」(スタックのみで拘留されること)の後、白人(ジョエル・キナマン)の体で目が覚める。つまり、精神は日系人だが、見た目はキナマンだ。劇中では、タケシが生まれ持った肉体(ウィル・ユン・リー)で生きている時代、その次に自身が選んだスリーヴ(バイロン・マン)の時代のフラッシュバックもあるが、基本的にはキナマンがメインで話が進む。ちなみに、リーもマンも顔立ちはアジア人だが、日系ではない。

スリーヴの設定はもちろんストーリー展開にも活かされるし、主人公が白人であることの説明は付く。ましてや半分東欧人なのだから、そんな設定がなくても白人の顔立ちをしていてもおかしくないと言われればそうだ。ただ、少なくとも今回のドラマでははっきりとリーがタケシの本来の姿であると示されており、その次にもアジア系のスリーヴを選んでいることから、タケシが自分の見た目のアイデンティティをアジア系と紐づけていることがわかる。さらに原作小説では、タケシが白人の体を持つことの違和感を度々語るという。ドラマではそれがほとんどないどころか、ナレーションはリーではなくキナマンの声で行われる。

私は初めてこの作品を観たときからモヤモヤが治まらなかった。作品の知名度や日本人にあまりこの手の問題意識がないことが影響してか、日本語で意見している人がほとんどいなかったせいもある。(面白かったという感想はたくさんあったし私も充分楽しんだ。ヌードや暴力描写の問題は置いておく…。)後から下記のツイート等を読んで、要はこの設定は「知的でエキゾチックなアジア人のバックグラウンドと名前」と「マッチョでカッコいい白人の見た目」を組み合わせてサイバーパンク的にカッコいい主人公を作るための、”都合の良い言い訳”のように感じていたのだと気付いた。(スリーヴの設定とタケシの設定どちらが最初に作られたかという問題ではない)

原作は未読だが、調べると、タケシ以外の登場人物の設定や扱いはいくつか変えられていることが分かった。タケシの行動に目を光らせるメキシコ系のクリスティン・オルテガ警部補(マルタ・イガレーダ)は、小説ではタケシの視点でしか描かれないというが、ドラマでは単独シーンも多々ある重要人物になっている。小説では他人で、原作者はサンドラ・ブロックをイメージしていたというレイリーン・カワハラ(ディーチェン・ラックマン)は、ドラマではタケシの妹という設定になり、後半の中心人物となる。ラックマンはチベットやネパールの血を引くオーストラリア人女優だ。重要人物の一人で小説では白人と記述されているリジー・エリオットは、黒人のヘイリー・ローが演じている。タケシを取り巻く女性陣は有色人種ばかりなのだ。小説の設定には何のこだわりもないしドラマ版はそれぞれ魅力的なキャラクターだったので、こうした変更自体には何の異議もないが、これを「多様性に富んでいる」と称賛するレビューは素直に受け入れられなかった。どうも、タケシを白人にしていることへの埋め合わせのように感じてしまったからだ。

オルタード・カーボンはシーズン2の配信が決まっており、今度はタケシは黒人のスリーヴ(アンソニー・マッキー)に転送されることが分かっている。「マッチョでカッコいい」だけではない、彼ならではのタケシを演じてくれたらいいなと思う。

 

I didn’t think the term “whitewash” was this common in Japan until recently, when the news about the casting for the live action film of Disney’s Little Mermaid provoked controvercy. Some of the hideous tweets I read were “That’s blackwash”, “No that’s blackpaint”, “Why would you do this when you know people would be angry if you made Tiana, Pocahontas, or Muran white”. I felt dizzy.

As much as I was disappointed in Japanese people's ignorance of racial issues, this was a good opportunity to think about cultural representation, which we rarely do. And, in conclusion, it can be too complex to reach a single answer. This can’t be just black and white. And it is rather difficult to separate the social aspects of this issue from one’s personal preferences and feelings.

Little Mermaid is a fantasy. But if Ariel is black, should King Triton also be black? Wait, how would mermaids’ skin colour be inherited in the first place?

The casting of Naomi Scott as Jasmine in Aladdin was criticised as she had Indian heritage, but how much Arabic heritage would be enough? What if Jade from Little Mix had whiter skin?

Should LGBT characters be played by LGBT actors? But if that became common sense, what about the actors who decided not to come out?

In the film Ghost In the Shell, Scarlett Johansson played the lead who was originally a “Japanese” cyborg. I’d never watched the original anime or read the manga so I didn’t have much opinion about it at first. But now I think about how it’d have been really cool if the lead was played by a Japanese actor. I can’t recall a single Japanese lead actor in a Hollywood film. Maybe just the war film by Clint Eastwood. That Geisha wasn’t Japanese. By the way, the Japanese anime fans or the creators didn’t seem to really care either. Most of them think it’s natural that a white actor plays the lead in a Hollywood film. And she’s a cyborg anyway.

Then came Netflix’s Altered Carbon. This is another level of complicated. A person's memories and consciousness can be stored in a device called stack. Stacks can be transferred to other people’s bodies or synthetic ones, which are both called sleeves, so theoretically your mind can live forever if you keep transferring. Sleeves are expensive and you can’t choose which one to use unless you pay, so it is common to be resurrected in a body of a totally different ethnic background or a gender from your original one. Still, it’s not like people don’t care about their ethnicities or how they look. It’s not that far in the future. Or there would never be times like that.

Takeshi Kovacs, the lead character who has Japanese and East European heritage, is resurrected in the body of a white man (Joel Kinnaman) after inprisoned without a sleeve for 250 years. So he is (biracial) Japanese in his mind, but looks like Kinnaman. There are flashbacks of the time when Takeshi lived in the original body (Will Yun Lee) and also the time when he lived in the sleeve (Byron Mann) he chose himself, but the main actor is Kinnaman. By the way, Lee and Mann are both Asian but neither of them are Japanese.

This re-sleeving thing is of course integrated in the story, and it does explain why Takeshi is white. He is half East European anyway so he could look white in the first place. However, at least in the show, it is shown that Lee is who Takeshi originally looks like, and they indicate that he identifies his look as Asian man by letting him choose Mann as his next sleeve. In addition, I found out that in the book, Takeshi frequently discusses the difference between his ethnic identity and his body, which the show never really did. And the narration wasn’t even Lee’s voice, it was Kinnaman’s.

This never felt right to me. There wasn’t a single Japanese conversation about this I could find online, as this series wasn’t well known enough or people in Japan didn’t care much about these issues. (There were many people saying they enjoyed the show and I did too.) So I read English articles and tweets. I realised that it felt like this setting was a convenient excuse to make a cool cyberpunk protagonist with both “intellectual and exotic Asian background and a name” and “White hunk look”. (It’s not a matter of which came first, the sleeve thing or Takeshi’s ethnicity.)

I haven’t read the book but I also found out that some of the other characters are significantly changed. Reileen Kawahara (Dichen Lachman), whom the author of the book apparently said he’d imagined to be played by Sandra Bullock, wasn’t even Takeshi’s sister in the book. She became one of the main characters in the second half of the show, played by Lachman who has Tibetan and Nepalese heritage. Lizzy Elliot, who was originally described white in the book, was played by a black actor Hayley Law. I had no attachment to the settings of the book, and these characters were amazing in the show so I have no objections to these changes themselves. Yet I couldn’t fully agree to the article which praised the show’s diversity. These changes, after all, just made me think that the creators wanted to make up for whitewashing Takeshi.

The show has its next season coming up soon, and Takeshi will be played by Anthony Mackie which means he'll be black this time. I hope he’ll portray Takeshi in his own way, not just as a black hunk.

ゆとり世代だろうがなんだろうが、いつかは大人になるという話

※ドラマ『Girls』についてネタバレがあります

 大好きな曲があって、その歌詞の意味や背負っている文化的背景などを改めて知ったとき、自分の経験や感覚との距離を感じて愕然とすることが、たまにある。

 Tracy Chapmanの「Fast Car」は、物心ついたときには、FMで定期的に流れる懐メロのようになっていた。英語を理解するようになってから、その歌詞が持つ重みに衝撃を受けた。なんとなくみんなのお気に入りだと思っていた曲は、私よりずっと大変な境遇にありながら、少しずつ思い描いていた未来に近づこうとする、すごく強い人のために書かれたもののような気がした。

 だから、それがドラマ『Girls』の最終話で使われているのを観て、最初は違和感を感じた。ものすごく乱暴に説明すれば、アメリカ版『ゆとりですがなにか』のようなこのドラマは、『Gossip Girl』(思春期)と『Sex And The City』(成人期)の狭間の世代、ミレニアルを描いている。4人の女子は、みんなどこか幼稚で甘ったれで、それでいて目上の人が相手でも自分を正当化できる(あるいはできてなくても勢いでその場を押し切れる)ほど弁が立つ。そんなんだから激しく言い争うこともしょっちゅうで、それでもなんだかんだ友達であり続ける、のではない。途中まではそうだけれど、最終シーズンは驚くほど急展開で、それまでも段々と離れていた4人の距離を方方に伸ばし、視聴者を置いてけぼりにしながら、主人公のハンナにフォーカスしていく。

 4人が離れる原因となる出来事の一つが、ハンナの妊娠だ。ニューヨークを離れて郊外で教職に就き、シングルマザーとなったハンナの元には、親友のマーニーだけが半ば無理矢理ついてくる。ダメダメだったハンナは、母になって大人になったかと思いきや、相変わらずな口論をマーニーや子育てを手伝いに来た自分の母親と続ける。Fast Carは、最終話の冒頭、ラジオに合わせてマーニーが歌い出す場面で最初に使われる。息子が母乳を直接飲んでくれないことに悩んでいたハンナは、イライラを募らせて半ギレする。

 その後、若い頃の自分のような、より自己中で甘ったれた家出少女に出会ったことで、ハンナは思いがけず”母親の愛”について語る。最後は、ハンナがFast Carを口ずさみながら、無事に息子に授乳するシーンで終わる。

 少しずつキャリアを切り開いてきたとはいえ、まだまだ甘やかされたゆとり女子に見えたハンナと、ヤク中の元夫にすら超自己中な性格を批判されるマーニー。そんな二人がFast Carを歌う構図は、なんだか曲の意味を軽くしてしまっているように思えた。

 番組の音楽担当者の話では、Taylor SwiftやLordeの新曲を使えばそれっぽかったかもしれないけれど、それでは曲がストーリーの重みに耐えられないと判断し、以前から使いたいと考えていたFast Carに白羽の矢を立てたそうだ。Chapmanは基本的に映像作品には曲を提供しない人らしく、この曲の使用許可を取るために、もはやフェミニストのアイコンのようになっているこのドラマの製作・監督・脚本・主演のLena Dunhamが自ら電話で依頼したという。この曲が使われていること自体が、すごいことなのだ。そこで、彼女が何といって説得したのかはわからないけれど、そこには、Chapmanも納得するに足るストーリーがあったのだ。

 妊娠・出産というきっかけは半ば強制的でベタではあるけれど、ハンナは大人になる。Fast Carの主人公とは違って、呑んだくれて働かない親父や亭主はいないけれど、彼女なりに着実に階段を上って、人生の次のステージへと進んでいく。

 そこまで考えて、気づいた。

 少し年下で、自己中で諍いの絶えない彼女たちを、私はいつもどこか下に見ていた。けれどもいつの間にか、少なくともハンナには、追い越されていたのだ。

 否応なしに環境の変化を迫られる出来事はないけれど、私もいつまでも若者でいるわけにはいかない。そういう普遍性を、Chapmanは歌っていたのだ。

「過保護のカホコ」に発達障害のレッテルを貼ることはつまらないことなのか

 「過保護のカホコ」(日テレ)を観た。遊川和彦さん脚本のドラマは、「家政婦のミタ」と「女王の教室」を観ていて、どちらも主人公のキャラはちょっと行き過ぎじゃないかと思ったけど、そのおかげでどんどん引き込まれる展開があって、最後は温かい終わり方で、好きだった。

 高畑充希演じるカホコは、まず松嶋菜々子演じる家政婦のミタさんや天海祐希演じる女王マヤのようにおっかなくない。世間知らず過ぎるところがちょっともどかしいけれど、可愛さでそれを吹き飛ばすほのぼのキャラなんだな、と思って、なんだか先の2つのドラマとの対比もあって安心して観ていた。が、途中で何度か、やっぱりかなり攻めてくるなーと思うくらいのオドオドぶりがあった。あまりに挙動不審で、好きか嫌いかというよりは、ただただびっくりして、さすが遊川脚本だ、熱演だなと思った。

 ちょっとほかの人の感想が気になって、ツイッターの検索窓に「過保護のカホコ」と入れてみたら、なんと連想キーワードに「障害」と出てきた。なるほど、私も詳しくないので実際の特徴がどうかはさておき、そういうふうに考える人がいてもおかしくないかも、と思った。検索結果をスクロールしていくと、ツイートは「発達障害じゃね」と決めつけまたは疑問を呈して終わっているもの、「過剰すぎてイライラする」とまで言っているもの、「障害でなく後天的なものだと思う」と分析しているもの、「可愛いのに障害とか言っててひどい」、「ちょっと人と違うとすぐ障害とかいう人がいて嫌だ」、「高畑充希演技上手すぎる」といったものなど、スタンスとしては多様だった。

 ここで思い出したのが、アメリカのコメディドラマ(いわゆるシットコム)の「The Big Bang Theory(邦題:ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則)」に出てくるシェルドンというキャラクターだった。ビッグバンセオリーは、大学に勤める学者でマンガやゲームやコスプレが大好きなオタクでもある4人組の男子と、アパートの向かいの部屋に越してきた美女の話だ。観たことのある人なら分かると思うが、彼はその4人の中でもものすごくクセのある人物で、16歳で博士号を取得するほどの天才でありながら、特定のルーティンに沿って暮らさないと気が済まない(曜日ごとに何を食べるか決まっている、家では必ずソファの同じ位置に座る、病気の時は「柔らか子猫」の歌を歌ってもらわないと寝られないなど)、一度やり出したことは終わるまでやらないと気が済まない、人の感情に寄り添えない、潔癖症であるなど、数々の特徴を持っている。それはそれは周りの人をイライラさせるし、友人たちも普段はうまく彼の習性に付き合いながらからかったり、たまにブチ切れたりするのだけど、このキャラクターは人気もすごい。演じるジム・パーソンズのギャラは1話1億円だそうで、彼はこの役で4度のエミー賞も獲っている。

 で、なぜシェルドンを思い出したかと言うと、以前、彼は発達障害なのか?という疑問がファンの間で盛んに議論されていたからだ。実際にドラマの制作側はこの疑問に回答していて、それは、シェルドンには特定のラベルを与えていないというものだった。つまり、番組としては発達障害ではないとしている。

 その理由として制作側は、以下(一部)を挙げている

・シェルドンが実際に病気に悩まされているとしたら、友人たちがこれまでのように彼をからかえなくなるということ。
発達障害の設定にすることで、シェルドンの行動に制限を持たせたくないということと、同時に(発達障害には「よくある傾向」はあるものの、皆一様ではないため)発達障害に特定のイメージを与えるのを避けたいということ。
発達障害と決めてしまうと、詳細を正しく描くためには執筆陣の負担が重くなってしまうこと。(アメリカのドラマはたいてい複数のライターがチームで脚本を書いている)

 あるアスペルガー当事者のブログでは、この回答に不満を表している。まずは発達障害を病気と呼んでいる点。そして、シェルドンをからかう友人たちのジョークはほぼすべてが発達障害の特徴に関するジョークであるにもかかわらず(それを面白いと思う人もいれば、不快に思う人もいる)、発達障害の設定を持たせてはジョークが言えないとすることは、発達障害をからかいたいけれどもそれを認めたくないと言っているように聞こえるということ。そして、発達障害が一様でないとするなら、なぜシェルドンの行動が制限されることを恐れるのかということ。ライターの負担については、これは正直な意見だとしながらも、詳細を気にしている時点で、発達障害を理解していないとしている。この記事のコメント欄には、すごく同意できるといったものから、ちょっと被害妄想過ぎではないか、言ってもコメディだし制作陣にそこまで理解を求めなくてもいいのではというものなど、主に当事者やその家族からのさまざまな意見が見られる。

 設定云々の話とは少しずれるが、シェルドンの描かれ方を歓迎している当事者の声は多いようだ。「Autism Speaks」*という自閉症当事者支援団体の職員で自身も自閉症である人の記事では、いかに自閉症当事者やその家族にシェルドンが人気かということが書かれている。シェルドンは、自閉症の設定ではないが、これだけユニークな性格でありながら自分を偽ることをせず、ありのままに生きている。それでいて、職や彼女を持ち、自立している姿が、希望になるというのだ。

 また、前述のブログへのコメントには、ドラマ内での友人たちのシェルドンとの付き合い方を賞賛するものもあった。シェルドンの特異な行動を笑いつつ、特徴を理解して彼の前ではどう振る舞えば良いのか互いにリマインドしつつ(彼のソファの定位置に座らない、食べ物を触らないなど)、ムカつくことがあってもなんだかんだ友だちとして気にかける。からかうことなんかは当人同士の関係性にもよるだろうけど、私から見ても、この友人たちはとても忍耐強くて友だち想いの良い人たちだと思う。

 これは、過保護のカホコでの麦野くん(竹内涼真)の対応と似ていて、カホコの不審な挙動にツッコミを入れつつ、ちゃんと理解しようとしているところがとても微笑ましい。人としてはとてもまっとうなんじゃないかと思うけれど、仮にカホコが発達障害の設定だった場合、どうなのか。シェルドンに関するコメントでも見かけたが、単純に、発達障害の登場人物がドラマに出てくることが少ない現状では、とたんにカホコが発達障害者代表のようになってしまい、制作側もそれを背負うことになるので、まっとうか否か以前に、かなりやりづらくなるのではないかと思う。

 問題は今のところ、そういう設定か否かというより、「発達障害じゃね」の後に続く言葉がなんなのかということじゃないかと思う。嘲笑するようなものはもちろん、そんなこと言うなんてひどいといったニュアンスのコメントも、当事者には不快なんじゃないだろうか。

 カホコに関するコメントで、正直だけれど、棘がなくて良いなと思ったものがあった。

 エンタメ作品として、単純に過激な演出に対して「やりすぎ」とか「重苦しい」と言われるのは仕方のないことだし、想定内のリスクだと思う。それで離れる視聴者は離れる。インパクトはだいぶ小さくなるだろうけど、障害に見えないくらいの過保護を演出することだってできたはずだ。発達障害について知識を深めようとか、フィクションでの発達障害の扱いについて議論を起こそうといった意図は、ビッグバンセオリーにも過保護のカホコにもなかったと思うけど、ビッグバンセオリーに関する議論を見ている限り、それは良い方向なんじゃないかと思う。現状のドラマはドラマとして楽しみつつ、今後主要人物に発達障害のキャラクターがいるドラマが作られるとしたら、どんな扱いだったら面白くなるのか、いろんな人の意見を聞いてみたい。

*Autism Speaksは当事者団体としてはかなり物議を醸しているよう。参考まで。(2019.8.8追記)