Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

「過保護のカホコ」に発達障害のレッテルを貼ることはつまらないことなのか

 「過保護のカホコ」(日テレ)を観た。遊川和彦さん脚本のドラマは、「家政婦のミタ」と「女王の教室」を観ていて、どちらも主人公のキャラはちょっと行き過ぎじゃないかと思ったけど、そのおかげでどんどん引き込まれる展開があって、最後は温かい終わり方で、好きだった。

 高畑充希演じるカホコは、まず松嶋菜々子演じる家政婦のミタさんや天海祐希演じる女王マヤのようにおっかなくない。世間知らず過ぎるところがちょっともどかしいけれど、可愛さでそれを吹き飛ばすほのぼのキャラなんだな、と思って、なんだか先の2つのドラマとの対比もあって安心して観ていた。が、途中で何度か、やっぱりかなり攻めてくるなーと思うくらいのオドオドぶりがあった。あまりに挙動不審で、好きか嫌いかというよりは、ただただびっくりして、さすが遊川脚本だ、熱演だなと思った。

 ちょっとほかの人の感想が気になって、ツイッターの検索窓に「過保護のカホコ」と入れてみたら、なんと連想キーワードに「障害」と出てきた。なるほど、私も詳しくないので実際の特徴がどうかはさておき、そういうふうに考える人がいてもおかしくないかも、と思った。検索結果をスクロールしていくと、ツイートは「発達障害じゃね」と決めつけまたは疑問を呈して終わっているもの、「過剰すぎてイライラする」とまで言っているもの、「障害でなく後天的なものだと思う」と分析しているもの、「可愛いのに障害とか言っててひどい」、「ちょっと人と違うとすぐ障害とかいう人がいて嫌だ」、「高畑充希演技上手すぎる」といったものなど、スタンスとしては多様だった。

 ここで思い出したのが、アメリカのコメディドラマ(いわゆるシットコム)の「The Big Bang Theory(邦題:ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則)」に出てくるシェルドンというキャラクターだった。ビッグバンセオリーは、大学に勤める学者でマンガやゲームやコスプレが大好きなオタクでもある4人組の男子と、アパートの向かいの部屋に越してきた美女の話だ。観たことのある人なら分かると思うが、彼はその4人の中でもものすごくクセのある人物で、16歳で博士号を取得するほどの天才でありながら、特定のルーティンに沿って暮らさないと気が済まない(曜日ごとに何を食べるか決まっている、家では必ずソファの同じ位置に座る、病気の時は「柔らか子猫」の歌を歌ってもらわないと寝られないなど)、一度やり出したことは終わるまでやらないと気が済まない、人の感情に寄り添えない、潔癖症であるなど、数々の特徴を持っている。それはそれは周りの人をイライラさせるし、友人たちも普段はうまく彼の習性に付き合いながらからかったり、たまにブチ切れたりするのだけど、このキャラクターは人気もすごい。演じるジム・パーソンズのギャラは1話1億円だそうで、彼はこの役で4度のエミー賞も獲っている。

 で、なぜシェルドンを思い出したかと言うと、以前、彼は発達障害なのか?という疑問がファンの間で盛んに議論されていたからだ。実際にドラマの制作側はこの疑問に回答していて、それは、シェルドンには特定のラベルを与えていないというものだった。つまり、番組としては発達障害ではないとしている。

 その理由として制作側は、以下(一部)を挙げている

・シェルドンが実際に病気に悩まされているとしたら、友人たちがこれまでのように彼をからかえなくなるということ。
発達障害の設定にすることで、シェルドンの行動に制限を持たせたくないということと、同時に(発達障害には「よくある傾向」はあるものの、皆一様ではないため)発達障害に特定のイメージを与えるのを避けたいということ。
発達障害と決めてしまうと、詳細を正しく描くためには執筆陣の負担が重くなってしまうこと。(アメリカのドラマはたいてい複数のライターがチームで脚本を書いている)

 あるアスペルガー当事者のブログでは、この回答に不満を表している。まずは発達障害を病気と呼んでいる点。そして、シェルドンをからかう友人たちのジョークはほぼすべてが発達障害の特徴に関するジョークであるにもかかわらず(それを面白いと思う人もいれば、不快に思う人もいる)、発達障害の設定を持たせてはジョークが言えないとすることは、発達障害をからかいたいけれどもそれを認めたくないと言っているように聞こえるということ。そして、発達障害が一様でないとするなら、なぜシェルドンの行動が制限されることを恐れるのかということ。ライターの負担については、これは正直な意見だとしながらも、詳細を気にしている時点で、発達障害を理解していないとしている。この記事のコメント欄には、すごく同意できるといったものから、ちょっと被害妄想過ぎではないか、言ってもコメディだし制作陣にそこまで理解を求めなくてもいいのではというものなど、主に当事者やその家族からのさまざまな意見が見られる。

 設定云々の話とは少しずれるが、シェルドンの描かれ方を歓迎している当事者の声は多いようだ。「Autism Speaks」*という自閉症当事者支援団体の職員で自身も自閉症である人の記事では、いかに自閉症当事者やその家族にシェルドンが人気かということが書かれている。シェルドンは、自閉症の設定ではないが、これだけユニークな性格でありながら自分を偽ることをせず、ありのままに生きている。それでいて、職や彼女を持ち、自立している姿が、希望になるというのだ。

 また、前述のブログへのコメントには、ドラマ内での友人たちのシェルドンとの付き合い方を賞賛するものもあった。シェルドンの特異な行動を笑いつつ、特徴を理解して彼の前ではどう振る舞えば良いのか互いにリマインドしつつ(彼のソファの定位置に座らない、食べ物を触らないなど)、ムカつくことがあってもなんだかんだ友だちとして気にかける。からかうことなんかは当人同士の関係性にもよるだろうけど、私から見ても、この友人たちはとても忍耐強くて友だち想いの良い人たちだと思う。

 これは、過保護のカホコでの麦野くん(竹内涼真)の対応と似ていて、カホコの不審な挙動にツッコミを入れつつ、ちゃんと理解しようとしているところがとても微笑ましい。人としてはとてもまっとうなんじゃないかと思うけれど、仮にカホコが発達障害の設定だった場合、どうなのか。シェルドンに関するコメントでも見かけたが、単純に、発達障害の登場人物がドラマに出てくることが少ない現状では、とたんにカホコが発達障害者代表のようになってしまい、制作側もそれを背負うことになるので、まっとうか否か以前に、かなりやりづらくなるのではないかと思う。

 問題は今のところ、そういう設定か否かというより、「発達障害じゃね」の後に続く言葉がなんなのかということじゃないかと思う。嘲笑するようなものはもちろん、そんなこと言うなんてひどいといったニュアンスのコメントも、当事者には不快なんじゃないだろうか。

 カホコに関するコメントで、正直だけれど、棘がなくて良いなと思ったものがあった。

 エンタメ作品として、単純に過激な演出に対して「やりすぎ」とか「重苦しい」と言われるのは仕方のないことだし、想定内のリスクだと思う。それで離れる視聴者は離れる。インパクトはだいぶ小さくなるだろうけど、障害に見えないくらいの過保護を演出することだってできたはずだ。発達障害について知識を深めようとか、フィクションでの発達障害の扱いについて議論を起こそうといった意図は、ビッグバンセオリーにも過保護のカホコにもなかったと思うけど、ビッグバンセオリーに関する議論を見ている限り、それは良い方向なんじゃないかと思う。現状のドラマはドラマとして楽しみつつ、今後主要人物に発達障害のキャラクターがいるドラマが作られるとしたら、どんな扱いだったら面白くなるのか、いろんな人の意見を聞いてみたい。

*Autism Speaksは当事者団体としてはかなり物議を醸しているよう。参考まで。(2019.8.8追記)