Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

『最後の決闘裁判』は誰のための物語なのか

映画をよく観る人であれば、感想について話すとき、好き嫌いは人それぞれで「だから面白い」と感じる人が多いと思う。私も嫌いな映画はとても多いけど、ただ「つまらない」と感じたものであれば、その作品を好きな人がどんなところを面白いと感じたのかはたいてい楽しく聞くことができる。
 
しかし、その感想が人の倫理観に及べば、それはもはや映画の内容についての話ではない。『The Last Duel(最後の決闘裁判)』についてのキネマ旬報の「なぜマルグリットは性被害を告発したのか」という文章が「そんな感想もあるだろう」と受け入れられず炎上したのは、そういうことだろう。
 
私にとっては、この映画が明らかにMeTooをテーマにしているにもかかわらず『羅生門』スタイルを真似ようとしたこと、性的暴行シーンを描いたこと自体が、弱者の尊厳を踏みにじる受け入れられない行為だった。そして、いくら悪気はなかったとしても、その行為が見渡す範囲のほとんどの人から賞賛されていることは、人間不信につながった。
 
こんなに許せない映画のために時間を割くのもばかばかしいけれど、これは映画表現だけの問題ではない。このままにしていると消化不良なまま作品名を見る度に心が削られていくだけなので、せめて感じていることを精いっぱいまとめようと思う。
 
羅生門』形式では女性に寄り添うことはできない
 
この映画は、騎士ジャン・ド・カルージュマット・デイモン)、その旧友のジャック・ル・グリアダム・ドライバー)、ル・グリからのレイプ被害を告発したカルージュの妻マルグリット(ジョディ・カマー)それぞれの視点から同時期の出来事を描いた3幕構成になっている。各幕のタイトルは"The Truth according to 〜(〜にとっての真実)"と名前が入っているが、3幕目のマルグリットのパートに入るときに"The Truth"の文字だけが数秒残されることで、マルグリットが真実を語っている前提であることがわかる。
 
MeToo運動から私たちが学んだことは、「声を上げた人に寄り添う」ことの重要性だ。それは盲目に被害者の証言のみを信じるということではなく、セカンドレイプを防ぐための措置であり、この問題に向き合うために求められる姿勢である。まだ事実を検証しなければいけない段階であるならともかく、誰が真実を言っているか結論を既に出しているこの作品で男たちの視点に時間を割くことは、たとえ結果的に彼らを断罪していても「いったん皆の話を聞いてみましょう」と中道しぐさをとることに他ならない。
 
この映画への主な賞賛で見る「有害な男性性、認知の歪みを描ききった」というのは、マルグリットのパートのみでは不可能だったろうか。いちいち男の目線からも描かないと、彼らの愚かさがわからないだろうか。それは今さら「浮き彫りにされた」ことだろうか。「マルグリットのキャラクターに惹かれ」、「危険を覚悟で声を上げた女性の物語」(WIRED)として作られたこの作品で、男たちのみのシーンはあれほど必要だったろうか。彼らにあれだけ時間を割くこと自体が、その女性にとって屈辱的なことではないのか。ひろゆきやら松本人志やらにジェンダー問題について発言の場を与えてはだめだとメディアに物申してきたのは誰だったか。
 
このスタイルが『羅生門』由来であることはマット・デイモンも明言しているが、羅生門の姿勢を否定しアップデートするということを意識した上であったとしても、「被害者も含む全員が嘘を付いている、真実はわからない」という建て付けである作品のスタイルを明確にオマージュすることは、今作の意図を伝える妨げになっている。現に、これだけクリアに宣言しているにも関わらず鑑賞後に「どれが真実なんだろう」と話す人(YouTube)や「マルグリットの平等志向は信ぴょう性が高いとはいえない」などと深読みする人(※当該ブログは現在削除)がいる。リドリー・スコット監督はそれを「アホか」と否定している(同YouTube内)が、自身の認識が甘かったのではないのか。
 

メッセージを伝えるために性的暴行シーンが必要な作品などいらない

 
小さな救いだが、レイプシーンについては批判の声も多数見かける。主な擁護の声は「描かないと事実を疑う人が出る」というものだったが、これは3幕構成と同じでMeTooの伝えてきたことに不誠実だ。作品としてはあくまで事実を目撃したからでなく「あなたがそう発言したから信じます」と言う姿勢を示すことが必要なのだ。
 
エロ消費でなく暴力として描き切ったという評価もみかけたが、レイプがひどい暴力であることの再確認は本当に必要だろうか。インティマシー・コーディネーターを入れ、ジョディ・カマーが覚悟を持って臨みアダム・ドライバーがリスペクトを持って作っても、女性への性暴力描写が女性の尊厳を踏みにじるものであることに変わりはない。わかっていて酷いシーンは酷いシーンとして必要性を感じながら観られたというなら、それがコンテンツ消費じゃなくてなんなのか。
 
私はこれまでフィクションのレイプシーンで辛くなったことはあまりなかったが、これは本当に泣きそうなほどだった。それは詳細な描写と迫真の演技のせいでもあるけれど、この映画が一見女性に対して良心的な意図を持って作られているようなのに女性を痛めつけるばかりだったので、このシーンがダメ押しになったのだと思う。男性社会を批判するための作品が、結局批判の対象と同じことをしてしまっているのだ。
 
注意書きを入れればいい、辛くなりそうな人は観なければいい、無知な男性の教育になればいいと思った人は、ちょっと立ち止まって、この映画が(少なくとも制作陣の表面上の意図の上では)誰のためのものだったのかをもう一度考えてみてほしい。どうしてもはっきりさせておきたいというなら、ダサくなっても直接描写はせず「レイプシーンは省略します」とでもテロップを入れておけばいいのだ。『Promising Young Woman(プロミシング・ヤング・ウーマン)』では証拠としてのレイプ映像をスマホで見ているという描写でそのスマホ画面は写さないという巧みな方法をとったが、それでも「肝心の部分は見せていないのだから真相はわからない」と疑う声があった。しかしそこで「こういうこともあるから見せれば良かった」と思った人はどれだけいたのだろうか。無知な人達のためにエンタメを後退化させ、人を傷つけることなど映画ファンとして望んでほしくない。
 
本気でこの問題について世の中を啓蒙する気があるのなら、女性の物語を男性主導でエンタメ化することは決してそのための正しい道ではない。女性の物語として尊厳を持たせるものが作れないなら、もっと人を傷つけずにできる方法を教育や政治の現場に飛び込んででも模索すればいい。
 
カルージュによる夫婦間のレイプも描かれていたが、女性がモノとしか見なされない社会で夫婦関係というもの自体の始まりが欺瞞であり、同意など大事にされず心を無にしながら妻が耐えていたという事実も、何も新しいものではない。改めて描写が必要な理由は何だったのだろうか。女性によるセカンドレイプも、「こういうことを言うのがセカンドレイプですよ」と言わんばかりの説明臭さしかなく、その時代に生きる女性のさまざまな苦しみを深みをもって描くつもりなど微塵も感じられなかった。
 
今年同じような文脈で批判されたものに、Amazon Primeのドラマ『Them(ゼム)』があった。1950年代、白人ばかりが住むエリアに越してきた黒人家族が、隣人からも超常現象からも徹底的に痛めつけられる人種ホラーだ。彼らは戦う意志を見せこそするものの10話に渡って怯えつづけ、同作は一体これがtorture pornでなくてなんなのかと激しい批判を浴びた。作品自体を批判せず「辛い人は観なければいい」とだけ言った人は決して多数派ではなかった。

 

禊になってない

 
企画脚本のベン・アフレックマット・デイモンに、今回の題材に関連して決して誇れない過去があることも私がこの作品を否定的に見る大きな要素の一つになっている。テレビ出演中に共演者の胸を掴んだアフレック(ELLE)とMeToo問題に対して「みんな報復しようと多くのエネルギーを割いている気がする」などと不用意な発言をしたデイモン(Rolling Stone)は、それぞれ謝罪はしているので私がそれが十分かをジャッジするのも違うとは思う。しかし彼らがこの題材を扱うことは本人たちの意図がどうあれ禊の意味合いを含むし、実際そのつもりだったと思う。
 
それなのにろくに考えずに3幕構成を決め(女性脚本家のニコール・ホロフセナーとMeToo団体の監修を入れたとはいえ6週間でこの脚本を書いたというのは批判に値すると思う)決闘を撮るなら彼だよねといってリドリー・スコットに企画を持ち込んでいる時点で、それは単に題材を利用し自分たちが称賛されるかっこいいエンタメ作品(それがどれだけ皮肉を含んでいたとしても)を作るだけの試みになってしまう。実際フタを開けてみればプレスのとりあげ方は「ベンとマットが24年振りに共作!」と2人にスポットを当てるばかりだ。
 
本当にこれまでの埋め合わせをする気があるなら、現代劇でそれぞれ本人役で出演し、自分自身を断罪したらどうか。そこまでいかなくても、中世フランスという設定は自分たちから批判の矛先を遠ざけ時代設定の魅力を借りすぎではないのか。
 
男が自身の株を上げ、ついでに男を教育するためにこの題材を扱うことのグロテスクさ、その扱い方の稚拙さを批判せず、キネ旬の批評家ばかりを批判する人たちは、女性を拷問する物語を消費したことの罪悪感から目を背けているだけではないのか。
 
私がどれだけ怒ったところで、人の評価が簡単に覆らないのはわかっている。それはほかの題材に関して、この記事のような言い分がまるまる私に跳ね返ってきたことがあるからだ。当事者からのそこまでの訴えを見てもまだ、私のその映画に関する評価は変わっていない。要は、どれだけ自分ごとに寄せることができるかなのだ。ただ、そうした当事者を前にして簡単にその作品を賞賛しないデリカシーと、学び考え続ける姿勢は持ちたい。
 
この映画を楽しんだ人が、この記事を読んでピンとこなかったとしても、フェミニズムMeToo問題についてさらに学んでくれたらと思う。
 

 

追記※これだけ「賞賛されているのを見るのがつらかった」と書いたのに反論になってない反論を長文でコメントされたのでコメント欄は閉じました。私にこれ以上平易な言葉で説明する義務も人の正しさの証明に付き合う義務もありません。違う意見を持つのはけっこうですが自分のブログなりSNSでやってください。すべて「そうは思いません」で返します。

『CODA』を観る前と後に知っておきたいろう者の視点

Appleサンダンス映画祭史上最高額の2500万ドルで配給権を獲得したシアン・ヘダー監督の『CODA』。エミリア・ジョーンズの歌唱力、手話シーンの多さもさることながら、『Sing Street(シング・ストリート 未来へのうた)』のフェルディア・ウォルシュ=ピーロの成長ぶりに感激してしまったこともあり、私の今年の暫定ベストと言えるくらい好きだった。

しかし使い古された表現もツッコミどころも多く、完璧な映画では到底ない。特にろう者やコーダ(Child of Deaf Adults=ろう者の親を持つ聴者の子ども)の方から見て、この映画を好きと言うことは傲慢にならないだろうかと気になってしまって、感想を探してみた。

ざっとツイートやブログ記事、YouTube動画を漁っただけだが、当事者の間でも、この映画への評価はだいぶ分かれている。そして、褒めている人も手放しにすべてを絶賛しているわけではなく、不自然な描写やプロット上の不満を多く指摘している。最終的にこの映画が大好きだという気持ちは今のところ変わらないけれど、この映画を観る上でそうした当事者の視点を共有しておく必要性を感じたのと、それに対して現時点で自分がどう折り合いをつけたのかを記しておこう思ったので、この記事を書いている。

 

ここからは、主にろう者であるJenna Fischtrombeaのブログ

Rikki PoynterのYouTube動画

Deaf Person Reviews CODA (2021) | CODA Movie Review | Film Fridays - YouTube

にあるCODAへの指摘について考える。

 

(※ネタバレレベルの内容は後半にそう注意書きした後に記載した。)

ろう者×音楽という組み合わせ

ろう者や彼らに関わる人がメインキャラクターになる作品では、音楽をテーマにしたものが多い。ドラマーが聴力を失う『Sound of Metal(サウンド・オブ・メタル)』も、『Listen to Your Heart』も、聴力を失うティーンがミュージシャンに出会う米Huluオリジナル作品『The Ultimate Playlist of Noise』も、日本のドラマ『オレンジ・デイズ』もそうだ。

CODAの主人公は、ろう者の両親と兄のもとに生まれた家族で唯一の聴者(コーダ)のルビー(エミリア・ジョーンズ)。音楽は以前から好きだったようで、家族が気にしないのを良いことに、家業である漁の最中も家でも大声で歌ったりレコードをかけたりしている。なぜか高校の最終学年で今さら合唱部に入ることを決め、急に音楽学校を目指すことにする。

劇中では、母親のジャッキー(マーリー・マトリン)が「私が盲者だったら画家を目指したわけ?」と言うシーンまである(このシーンは単に意地悪で嫌だと前述のブログでは書いているが、障害者を聖人化しないという意味では良いのかなと感じた)。

Poynterは、「ろう者だって音楽を楽しめるし、ろう者のラッパーやギタリストやピアニストだっている。ろう者の話になると音楽を結びつけようとするのはうんざり。ほかの職業にしたって良いのに」と話している。

CODAは歌唱シーンが見せ場となるので今の話のまま音楽とは切り離せないが、ティーンの成長物語と考えれば音楽以外の道に進ませることもできただろう。マイノリティに属する人を描く話が増えること自体はとても良いことだが、その困難に立ち向かう話ばかりでなく、当たり前に存在する人として型にはめない描写をすることが次の一歩になる。

主人公はコーダ当事者ではない

この映画の最大の功績は、原作のフランス映画『エール!』とは違い、ろう者の役どころに当事者の役者を配したことだ。しかし最初からこの方針だった訳ではなく、先に母親役をオファーされたマーリー・マトリンが「他のろう者役も当事者でなければ自分は出ない」と粘ったらしい。これはろう者唯一のアカデミー賞受賞俳優(1987年の『Children of a Lesser God(愛は静けさの中に)』)である彼女だからできたことだろう。

CODAは主人公と家族の関係がメインなので、手話だけで日常会話をするシーンがたくさんある。性の話を躊躇なくする両親も、スマホアプリやバーで女の子をナンパしてばかりの兄も、ろう者のステレオタイプに嵌まらないユニークな役柄だ。

一方、ルビー役のエミリア・ジョーンズはコーダではなく、9カ月かけて手話を覚えたという。

素人目にはわからないが、やはりコーダが使っているような流暢な手話には見えないらしい。コーダにとって手話は第一言語なので、そう簡単には真似できないのだ。コーダのように手話が駆使できかつ歌唱力のある人材を探すことは難しいのかもしれないが、手話を使う人にとって主人公が「コーダに見えない」というのは演技が下手に見えることと同義で、手話がわからない聴者であれば気づかないんだからと無視できる問題ではないだろう。

サウンド・オブ・メタルで一躍注目されたポール・レイシーはコーダで、私もこの言葉は彼のインタビューを読んで知った。彼の役はもともとろう者の俳優のみを対象に募集されていたのに途中で「ろう者を推奨する」に文言が変わったらしく、レイシーが抜擢されたことには批判もあった。

マイノリティ役のキャスティングには、演技の質だけでなく偏見や雇用機会の問題も関わってくる。ルビー役をコーダでない役者が演じることが絶対的に悪いとまでは言い切れないが、この議論が今後の映画界に良い影響を持つと信じたい。

なぜこれほどルビーに頼らないといけないのか

劇中、ルビーは何かと両親や兄のコミュニケーションの補助をしている。獲った魚の値段交渉、病院の医者とのやりとり、おばあちゃんとの電話、マスコミからの取材など。そうした“家族サービス”と歌の練習との両立に悩むところが中盤のメインプロットだが、ここは私でも不自然に感じた。

両親も兄もルビーが生まれる前からこの街で漁をして暮らしているのだから、自分たちでどうにかする術はあるだろう。ついつい娘に頼ってしまうというのはわかるが、明らかに学業に支障をきたしているのだから、大声で喧嘩するまでもなく以前のやり方に戻そうとするはずだ。「コーダであることの苦労」をことさら話の中心に持ってこようとする安易さはいただけない。

ろう者コミュニティの不在についても多くの人から指摘されている。ジャッキーは「月に一度会いに行くろう者の人たち以外に友だちがいない」とルビーに言われる場面があるが、そこは人付き合いを好まない変わった夫婦という言い訳も通用するかなと思う。しかし舞台はほかに一人もろう者や手話通訳者がいないような田舎ではない。

変なしゃべり方をするはずがない

ルビーは「小さい頃に変なしゃべり方をしていてからかわれた」と話しているが、それが起こり得るのは家族が手話だけでなく音声での発話もする人の場合で、家族のしゃべり方を真似するからだ。CODAの両親と兄はしゃべらないろうあ者なので、それは当てはまらないらしい。それくらいは事前に調べて脚本を書いてほしい。

 

※以下は特にクライマックスに関するものなので、鑑賞後に読んでもらった方が良いかもしれない。

 

突然“無音”にする演出

私にとって最もショックだった指摘は、ルビーが合唱部のコンサートでマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)とデュエットする最初のクライマックスについてのものだった。

ルビーの歌を聴いたことのない家族は、ルビーは本当に歌が上手いのか、今何が起きているのかと困惑顔でコンサートに参加している。合唱部全員で歌う数曲が終わり、ルビーとマイルズが2人で練習していたデュエット曲"You're All I Need To Get By"を歌い出すと、サビにかかるあたりですべての音が無音になる。誰もが楽しみにしていたであろう肝心の曲のいいところを聞かせず、唐突に家族の視点に鑑賞者を置く演出は、とても心動かされるものだった。頭では彼らが聞こえないことはわかっているつもりでも、どこかそれがどういう状態なのか想像しきれていなかった自分がいたのだ。

 

が、Fischtrombeaはこれが大嫌いだったという。ろう者が人の歌を聞くとき、単に音が全くなくなるだけではない。視覚情報から得られるものはとても大きいのだという。CODAではこれが映像で表せていたとはいえず、何なら単に音がないだけではなく視界までぼやけていた。ルビーとマイルズの方より、周りの観客の反応を見ることで情報を得ているような見せ方だった。

このシーンは、今でも何度見返しても泣けてくる。でも同時に、聴者にとって感動的で一見ろう者に寄り添っているように見えるシーンが、ろう者にとって不快にすらなり得ると知ることができて良かったと思う。

歌いながら手話で歌詞を伝える

もう一つのクライマックスは、ルビーがバークリー音楽学校への入学試験で"Both Side Now"を歌う場面だ。応援のため試験会場にこっそり潜り込んだ家族を確認したルビーは、彼らにも歌詞がわかるように手話を交えながら歌う。

この手話表現の"豊かさ"も相まって審査員は感心したように見えるし、合唱部のコンサートでも手話をすればよかったのにと私は思ってしまったのだが、Fischtrombeaは「聴者は必要のない歌詞の手話通訳に意味や感動を見出すことが大好き」と皮肉る。歌詞カードがあればそれでいいというのだ。

歌詞の手話通訳への"盲目的崇拝"については、さらにまるまるその問題点を指摘するために書かれたSara Novićの記事がある。

少し前に私のTLでも話題になっていたCardi Bの“WAP”の手話通訳動画。聴者の白人女性によるこのパフォーマンスがまたたく間にviralになり多くのメディアでも取り上げられたのに対し、

そうしたメディアの記事はその一カ月ほど前にろう者の黒人女性Raven Suttonが投稿した手話通訳動画も、その他大勢のろう者による同様の動画も取り上げなかった。

また、この手話通訳についてろう者がどう思うかコメントを取ったメディアもなかった。
Novićは、これは聴者の“救世主コンプレックス”による現象だと指摘している。

While the determination that our language is “cool” or “beautiful” is just fine, it becomes problematic when hearing people give themselves the authority to decide what is good, what isn’t, and who is allowed to have access. How do hearing viewers know whether a specific interpretation of “WAP” is an effective translation if they aren’t fluent ASL speakers? Answer: they don’t.

私たちの言葉が「かっこいい」とか「美しい」と決めるのは良いが、聴者が手話の良し悪しや誰がアクセスを持てるのかを決めることは問題だ。WAPの特定の歌詞の訳が的確かどうかなんて、手話を知らない聴者はどうやったらわかるのだろうか?わからないのだ。

ろう者を包括することのない手話の“崇拝”は、文化盗用になり得る。Novićは、これは「見た目の美しさだけで漢字の意味を知らずにタトゥーを彫ることと同じ」だと言っている。

ろうあ者が絞り出すように発する音声

最後に、ルビーが音楽学校に入学するために旅立つラストシーンについて言及しておきたい。別れを惜しんでなかなか出発できないでいるルビーに父親のフランク(トロイ・コッツァー)は声を出して「Go」と言う。これはいくらなんでも聴者の上から目線がすぎるだろうと私も観ながら思った。コッツァーはこのシーンのためにこれだけ言えるように練習したらしい。

Fischtrombeaは「2人とも手話が達者なのだからしゃべる必要などない」と一刀両断する。

 

ほかにもろう者・聴者以前のプロットの問題は多数あるが、どれも観ながら気づけるし、これまで挙げたものに比べたら些細だ。ろう者3人のキャスティングに始まり、監督も手話を学んできたこと、撮影でのさまざまなコミュニケーションの配慮、すべての劇場上映に字幕を付けたことなど、進歩的な点もたくさんある。

賞レースでも健闘してほしいと思うが、ろう者からの指摘が無視されることなく、今後のより包括的なrepresentationにつながってくれることを願う。

『In The Heights(イン・ザ・ハイツ)』の保守的な家族観と画一的な女性像への抵抗感

※自分では重要でないと思う部分しかネタバレしていませんが、作品的にはわりとメインの部分なので気にする方は鑑賞後にどうぞ
 
 
近頃、男女が結婚しました/結婚して子どもができました、という従来的な恋愛観/家族観のエンディングがすっかりダメになった。よっぽどそのことに意味があるか、本筋がそこではなく気にならないような組み立てになっていないと、多様な生き方を提示できるチャンスをまた一つ潰しやがって、と思ってしまう。群像劇でメインキャラクター全員がカップルになり子どもを持って終わるなんてことがあれば、もうその落胆は絶望に近い。5年くらい前まではまだまだそんな作品は多かった気がするけれど、最近はさすがに観なくなったかなあと思っていた。
 
映画『In The Heights(イン・ザ・ハイツ)』の元のミュージカルは2005年初演なので、価値観が古いこと自体への言い訳はつく。しかし、それを2021年にそのまま持ってくるにはそれ相応の理由がいる。
 
この作品の主題は、ニューヨーク・マンハッタンのワシントンハイツのラテン系住民たちのrepresentation、登場人物それぞれの夢や挫折、その背景にある移民社会の現実、故郷とは、と言った部分だ。それら自体はまだまだ普遍性のあるテーマで、だからこそ高い評価を受けているのだと思うし、私も興味を持った。ある意味恋愛要素は重要ではないし、なんならなくても成り立つ話だと思う。
 
それでもこの作品は、男女カップル2組をメインに据えることを選んだ。一番気になったのは、主人公ウスナビ(アンソニー・ラモス)が子どもたちに昔話を聞かせるところからスタートし、最後にその中の一人がウスナビの子ども、しかもウスナビが気になっていて話の中でデートするヴァネッサ(メリッサ・バレラ)との子どもだと種明かしする、という構成だ。
 
幼い頃に住んでいたドミニカ共和国のビーチにある父の店を再び開くというウスナビの夢がどうなるのか、ヴァネッサはファッションデザインの道に進むために街を出られるのか。父親がなんとか捻出したお金で周囲に期待されながら大学に進学したが、マイノリティであるが故になじめず挫折しそうになっている友人のニーナ(レスリー・グレイス)はどのような道を選ぶのか。正直これらのプロットと比べて、ウスナビとヴァネッサの恋模様はどうでもいい。苦悩や葛藤を明かし、励まし合い、夢に向かって前進しながら少しずつ恋愛関係も発展させていくまでは良いのだが、実は恋は成就してました!子どもも生まれてました!なんてドヤ顔で披露されても、今どき何でそんな仕掛けで喜ばれると思ってるの…?としか思えない。
 
ほぼ全ての登場人物がラテン系であることで、女性像が随分と限定されて見えるのも気になる点だ。ヴァネッサもニーナも、ヴァネッサが働くサロンの女性たちも、猛暑という設定だから仕方ないといえばそうなのだが、体のラインが分かりやすいタンクトップやホットパンツを着た、いわゆるセクシーなタイプだ。文化的背景によって多少傾向はあるとはいえ、もう少し多様なファッションの人がいても良かったのではないか。そうした視野の狭さが、今回批判されたdarker skinの登場人物の少なさにもつながったのではないかと思う。
 


一番抵抗があったのは、『Brooklyn Nine-Nine(ブルックリン・ナイン-ナイン)』では無口でクールな刑事を演じていたステファニー・ベアトリスが、ピンクのビキニを着て、サロンの店長のおまけのように(『Mean Girlsミーン・ガールズ)』で言えばレイチェル・マクアダムスではなくその横にいたレイシー・シャベールのように)踊ったりサロンで噂話をしたりするような役回りになっていたことだ。いろんな顔を見せてこそ役者だろう、と言われればそれまでだが、一度かっこいい役を観てしまった俳優がより従来的な女性像を演じているのを観ると何とも言えない気分になる。
 
ステファニーの役は最初店長の娘かと思っていたのだが、この2人は母娘でなくカップルだったらしい。サロンのシーンではドラァグクイーンのヴァレンティーナもカメオ出演している。しかし、言及できるクィアキャラクターといえばそれくらいだ。この作品はプライド月間のイベントで上映されたらしいが、正直もうこんな仄めかす程度のrepresentationでそれは…と思った。
 
家族観の部分だけでなく、肝心の夢の部分も、大した着地はしない。ウスナビは前と何が変わったの?という感じだし、ヴァネッサのファッションデザインは正直言ってダサい。アンソニー・ラモスのラップも好みではないしジョン・M・チュウ監督のキラキラ演出も(『Crazy Rich Asians(クレイジー・リッチ!)』では好きだったけど)合っているとは思えなかったし、もうこの映画は私向きではないと早めに気付くべきだった。

ジェイミー・ドーナンの天然キャラがハマり役、隠れたWTF案件『Wild Mountain Thyme』

予告編が公開されるやいなや、エミリー・ブラントジェイミー・ドーナンのオーバーなアイリッシュアクセントがバカにされ、いかにもアメリカ人から見たステレオタイプアイルランドの設定とベタそうなストーリーで早くもネタ化していた『Wild Mountain Thyme』。しかし、本編はそんなレベルじゃなかった。

 

 

舞台はアイルランドの田舎の農場。ローズマリーエミリー・ブラント)は隣の農場に住む幼馴染のアンソニージェイミー・ドーナン)に想いを寄せていたが、アンソニーローズマリーのことが嫌いではなさそうなものの、なぜか避けている。アンソニーの父トニー(クリストファー・ウォーケン)はそんな調子で結婚する気配のない息子より、家族を持つ気のあるアメリカ人の甥アダム(ジョン・ハム)に農場を継がせると言い出す。農場の下見を兼ねてトニーの誕生日パーティーアメリカから来たアダムはローズマリーのことが気に入ったようで…というのがあらすじ。

 

※ここから先はこの作品のどこがすごいのかを語るのだが、たぶんどこがすごいかなんてことを知ってしまうと意外性が半減するので(ネタバレはしないけど、あそこがすごいのか!と思いながら観るのと何も知らないで観るのとは衝撃が違うと思うので)それでも読んでくれる方だけどうぞ。

 

どこをどう切り取ってもベタベタのベタなストーリーなのだが、観始めるとどうも思ったよりかなりコメディの気配を感じる。最初からラブコメだと言ってしまっている媒体もあったのだが、多くはロマンスモノ、という感じの紹介だったので、ここまで笑えるとは想像していなかった。何より、登場人物たちがいたって真顔なのだ。真顔なのに、ジェイミー・ドーナン一挙手一投足が面白可笑しい。常に困った表情で、金属探知機を持ってウロウロしているか、コケているか、雨に濡れている。ステレオタイプアイルランド人を俯瞰して見ているアダムだけは、鑑賞者に近い立場かもしれない。

 

クリステン・ウィッグ&アニー・マモローの爆笑コメディ『Barb and Star Go to Vista Del Mar』にも出ていたジェイミー・ドーナンだが、そちらではこの真顔がこわばった感じに見えてしまって、天然キャラっぽい良さも出てはいたものの、アメリカンなコメディにまだ慣れずはっちゃけきれていないように感じた。しかし、こちらでは完全にそれが機能している。ドジでド田舎者で何を考えているか分からない真顔の天然キャラを完成させたのだ。

 

 

しかし、この作品がすごいのは、単に思ったより笑えたから、ではない。最大の分岐点は、終盤、何を考えているか分からないアンソニーローズマリーに「何を考えていたか告白する」場面にある。私はさらに爆笑してしまったが、ポカンとあっけにとられる人もいるかもしれない。そんな爆弾を、この作品は真顔で落としてくる。後から振り返ると序盤からそこかしこに伏線はあるのだが、だからといってこの展開を予想できる人はまずいないと言っていい。

 

後から知ったが、これは舞台作品をその作者自らメガホンを取って映画化したもので、監督のジョン・パトリック・シャンリィはトニー賞ピューリッツァー賞も受賞している実力者らしい。The Irish Timesは舞台の方をこき下ろしていたが、この記事によると衝撃のシーンは原作から変わっていない。アメリカのメディアでは概ね好評だったようだが、劇場では一体どんな反応だったのか、こんな展開でも演劇なら真面目に捉えられるのか爆笑の渦だったのか、気になってしょうがない。

 

実話殺人事件モノの新たな道筋を示した『The Investigation』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品を観るのがやめられない。ここ最近だけでもデヴィッド・テナントが連続殺人犯を演じた『Des(デス)』、『White House Farm(ホワイトハウス・ファームの惨劇~バンバー家殺人事件~)』、ルーク・エヴァンス×キース・アレンの『The Pembrokeshire Murders』(以上すべて英ITV)を観た。ちょっと前で言えばデヴィッド・フィンチャーNetflixシリーズ『Mindhunter(マインドハンター)』(実際の事件というよりは実在の連続殺人犯が出てくる)やザック・エフロン主演映画『Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile(テッド・バンディ)』、『El Angel(永遠に僕のもの)』もある。

 

なぜそんなにこの手の作品に惹かれてしまうのか。有名な事件だとモノによっては結末を知っていることもあるが、実話と分かっているからこその緊張感と説得力がやはり何より勝るし、皆作りがしっかりしていてうまいのだと思う(『テッド・バンディ』はそうでもなかった)。

 

「やめられない」とか「惹かれてしまう」と書いているのは、実在の悲惨な事件をエンタメとして消費することへの罪悪感が拭えないからだ。どの作品も、被害者への追悼や当時のずさんな捜査への批判、逆に懸命な捜査への称賛、犯罪者心理の解析といった大義名分はあっても、商業作品として世に出している限りやはり事件をセンセーショナルに描いてひと稼ぎしたいんだろうという批判からは逃れられない。何より自分が遺族だったらと考えると、どんな理由があっても事件のことをエンタメになどされたくない。ただでさえ実話のフィクション化はセンシティブになるべきことがいっぱいあるのに、殺人事件なんて一歩間違えば実在の人物を傷付けてしまうことだらけだろう。

 

デンマークのドラマ『The Investigation(インベスティゲーション)』(3月スターチャンネルEX配信)は、そんな中でひときわ異彩を放っていた。デンマークの発明家を取材しにきたスウェーデンの女性ジャーナリストの切断遺体が海から発見された2017年の“潜水艇事件”。タイトルの通りひたすら地道な捜査を描くのだが、最大の特徴は容疑者の顔も声も、名前すら一切登場しない点だ。

 

 

これまで挙げたほかのドラマは、どれも容疑者役俳優の迫真のサイコパス演技が一番の見どころだった。それがこの作品では、取り調べを担当したコペンハーゲン警察の主人公の部下たちの報告という伝聞でしか容疑者の言葉を聞く機会はない。初めての展開だったので、全6話中3話目くらいまではまだ「もったいぶってこのあと大々的に登場するんじゃないの?」と思っていた。極力センセーショナルさを抑えるという点で、これはとても大胆な決断だったと思う。

 

さらに、やっと容疑者を殺人で起訴することができ、いよいよ裁判かと思えば、法廷シーンはすっ飛ばされる。検事役のピルー・アスベック(『Game Of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』)の活躍を観たい人には残念だが、このドラマのメインはあくまで捜査なのだ。

 

監督・脚本のトビアス・リンホルムは、マッツ・ミケルセン主演の『Another Round(Druk)』の脚本を手がけ、前述の『マインドハンター』にも関わっている売れっ子だ。彼は今回主人公となったイェンス・ムュラー元捜査主任に別のテロ事件について話を聞きに行ったが、潜水艇事件の捜査での科学者やダイバーの活躍や被害者キム・ウォールの両親との友情について聞き、事件当時のマスコミの容疑者のことばかり扱った過激な報道とは違うアプローチで伝えられる物語があると考えたという。

 
I wanted to tell a story about Jens, Kim’s parents and the humanity of it all. A story where we didn’t even need to name the perpetrator. The story was simply not about him.
 

 

キム・ウォールの両親イングリッドとホアキムにも実際に会ったそうで、このドラマは彼らの協力で作られているということが一番の安心要素でもある。制作にあたっての彼らの唯一の要求は、彼らの飼い犬Iso役を本物のIsoが務めることだったらしい。潜水艇を海底から引き上げるシーンでは実際にその時使われた船を使い、当時の実際のクルーとダイバーが出演したという。

 

個人的には今のご時世警察の努力よりは故人の生前の活躍を伝えてくれる作品を観たいが(なので『Once Upon a Time in Hollywood(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド)』は好きだった)、最後にイングリッドとホアキムが娘の名前で女性ジャーナリストを育成するための基金を創設したことが描かれていたのは良かった。このドラマは4人に1人のデンマーク人が視聴し、マスコミも容疑者でなく、ジャーナリストとしてのキムについて報道しだしたという。

 

センセーショナルなドキュメンタリーも毎年のように次々製作される中、『The Investigation』は実際の事件を扱うフィクション作品の一つの誠実なあり方を示したと思う。

Black LivesではなくAll Livesの話になっている『Soul(ソウルフル・ワールド)』

私は普段から面白くなかった作品には面白くないとズバズバ言う方だが、周りの9割9分くらいがあまりに絶賛している作品の良さが分からなかった時は多少弱腰になる。昨年は映画『The Half Of It(ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから)』(Netflix)がそれだった。いや別に嫌いというほどだったわけではなく、個人的ワーストは『Bad Boys for Life(バッドボーイズ フォー・ライフ)』だったが、あれはけっこうこき下ろしている人もいたので私も安心して心置きなくこき下ろしている。あとついでに言うがドラマ『Modern Love(モダン・ラブ)』も評価され過ぎだと思う。

 
 
印象的にハーフ・オブ・イットと同レベル、たぶん視聴者数も考慮するとそれ以上の高評価を得ている『Soul(ソウルフル・ワールド)』(Disney+)を観た直後の私の感想は、「そのメッセージで皆そんなに感動できるの…?」だった。トレント・レズナー&アティカス・ロスの音楽やニューヨークの街中の質感は素晴らしくはあったのだが、肉体から抜けた魂の青白いQooみたいな造形も生前の世界の管理人(?)「ジェリー」たちの抽象画みたいなデザインも単なる手抜きに見えたし、この作品の核となるのは「人は生きているだけでいいんだよ」とか「日常のささやかなことに喜びを見出そう」みたいなことだ。いやたぶん、すぐには思い出せないけどそういうメッセージを持っていて感動した作品は過去にはある。だが、というかだからこそ別に何も新しいことはないし、ささやかなことだけでは済まないから人は結婚とか出産とか大きな夢とかのイベントを求めるのではないか。この作品のメッセージがすんなり入ってこないのは、物語が夢とそれを叶えるための才能を既に持っているジョーという主人公でスタートしているからだ。
 
人生ってそれ自体が素晴らしい、みたいなことは、生きる目的を見失っている人や自分を追い詰めているような人に向かって言うことで、今まさに夢を叶えた人に言うことではない。ジョーはミュージシャンを志していることを母親に良く思われていなかったり、前のめりになっていて多少周りが見えていなかったりはするが、別にそれはそこまで悪いことだろうか。ライブが決まって浮足立ってマンホールに落っこちて死んでしまうのだって、不幸で悲しいという以外の何物でもなく、そこに叩き込む必要のあるメッセージなどない。
 
saebou先生のブログを読んでようやくスッキリしたのだが、ジョーみたいな人にこのメッセージを押し付けることは、社会性を押し付けることでもある。人生讃歌とはいえ何もしないでボーッとしていることが良しとされるわけではなく、周りの人とのコミュニケーションとかピザとか落ち葉とかを有り難がろうというのがこの映画の趣旨だからだ。ジョーが念願のライブを終え、「あれ、ずっとこの瞬間を待っていたのに、なんかピンとこないかも…」みたいになったときは、あまりに映画の結論ありきの不自然なリアクションのさせ方にズッコけた。長年ずっとジャズピアニストになりたかったんだから、そりゃステージに立てて嬉しいだろうししばらくは達成感でいっぱいだし、次にまたどんな演奏ができるか楽しみで仕方ないだろう。どこの誰がこんな反応をするというのだ。いやそういう人もいていいのだが、実は教える方が好きだったかも、とかいうならそこの揺れをもっと丁寧にやるべきで、別に迷っている人には見えなかったし、パフォーマーを続けながら教えることだってできなくはない。
 

 
saebou先生の「この作品はpro-lifeの人に好かれそう」という指摘もなるほどで、この「生まれる前の世界」への嫌悪感の大部分はそれか、と思った。私は人は好きで生まれてくるのでも準備して生まれてくるのでもなく、いきなり世界に放り出されたところを何とかして舵を取れるようにならざるを得ないものだと思っている。性格だって興味関心だってその後の環境でいろんな人の影響を受けて形成するものだろうに、生まれる前に博物館のカタログで選びました、なんて言われたら親や周りの人の出る幕がない。
 
もう一つ、指摘があまり見当たらないけど気になったのは、命の扱いの軽さだ(pro-lifeのくせに)。まあ死後の世界と生まれる前の世界が出てくるのだからそんなに死を大げさにすることもできないのは分かるが、急に死んでしまってさあ天国に行ってくださいと言われたら、「これからライブに出られるとこだったのに!」とかより何より、まず「いやまだ死にたくないんですけど!」と多数の人がなるんじゃないのだろうか。ジョー以外の人が皆何の抵抗もせず天国と思しき所に行こうとしているのは、どうしても気味が悪かったし不自然に感じた。ちょっと考えれば本来脱走者続出で天界大混乱、魂の勘定係過労死、というよりセキュリティガチガチの物騒な世界になるのが想像できる。まあそれを避けるために天界のキャラたちはあんなに仕事ができない感じにしたのだとは思うが。
 
ハーバード大学の英語教授によるThe New Yorkerの記事を読んで、この命に関する考えは別の側面から強化された。床屋でジョーに嫌味を言ってくるポールというキャラクターは、その後ジョーの魂を天国に引き戻そうとする勘定係にジョーと間違えられ、一瞬魂を抜かれてしまう。そのままいけばそれは死を意味するが、勘定係は間違いに気付いて魂をポールの体に戻し、「ミスは起こるものさ、君はまだ死なないよ、そんな加工食品ばかり食べ続けなきゃね」と軽いノリでごまかす。私は鑑賞時「おっそろしいことするなあ」くらいしか思わなかったのだが、記事ではこのシーンが、この映画が描こうとしなかった世の中に無視されている黒人の存在、奴隷制の歴史、警官の間違いで命を奪われる黒人の恐怖を見せてしまっていると書いており、ジョーダン・ピールの『Get Out(ゲット・アウト)』で主人公が催眠術にかかった時に「沈んだ地」に落ちるシーンと比べてすらいる。
 

 
私はこの記事を読んだ後にゲット・アウトを観たのだが、この2作品を比べている人はほかにもちらほら見られる。Hyperallergicというサイトのレビューでは、「ゲット・アウトが文化的教養となった時代に、白人女性の声が黒人男性の体を動かすという設定をなぜ採用してしまったのか」と疑問を呈している。
 

 
ここでまた思い出したのがsaebou先生のブログの『TENET テネット』評だ。
 
実はこの『TENET テネット』、『ゲット・アウト』で批判されているような態度をそのまんまやっているような作品なのではないかと思う。〜中略〜この作品は人種とか性についての問題を掘り下げたりするようなことは全くしておらず、主人公が人種差別に直面する場面は一切ない。一方でこの空っぽの中心にジョン・デイヴィッド・ワシントンという黒人男性の身体を据えて、観客にその身体を乗っ取らせようとしている。
 
ソウルフル・ワールドでは、主人公は空っぽではなくちゃんとストーリーがあるのに、その体をまだ生まれる前の魂・22に乗っ取られる。そのまま劇中大部分で黒人の主人公の体を白人女性(しかもよりによってティナ・フェイ)の声で動かし、主人公は青白い姿か猫の姿にし、最終的には主人公自身のジャズピアニストという夢より22の気付きである“人生のささやかなこと”を優先させる。
 
この作品への批判として決して珍しいものではなかったようなのだが、この物語の本当の主人公はジョーではなく22であって、ピクサー初の黒人映画!なんて喜んでいる場合ではないのだ。Polygonの記事によると、そもそもこの作品は22の物語に後からジョーを足したものらしい。これを知ると、すべてが腑に落ちる。ソウルという言葉がいかに黒人文化の中で重要な意味を持つかをを分かった上でタイトルに冠し、黒人の共同監督・脚本家や著名ジャズミュージシャンのコンサルタントを据え、音楽だけでなく仕立て屋や床屋の描写など黒人文化にかなり気を遣ったからといって、「黒人文化を描いた作品」にはならない。人種などを越えたユニバーサルな(でも白人声の)魂の成長の物語を描く上で、文化的要素として利用されたのが黒人というだけなのだ。
 
魂の話を描くことや黒人文化を単なる一要素として描くことがいけないのではなく、まだrepresentationの不均衡を是正しようという動きが始まったばかりのハリウッドで「万人共通の」物語、といっても白人目線で用意された世界観の物語のためにマイノリティ文化を利用し、一見それがメインのように見せかけるという構図がグロテスクなのだ。
 

エイサ・バターフィールド君の雰囲気映画量産問題

彼が出ているなら、きっと私好みの映画だろう。エイサ・バターフィールド君にはそう思わせる魅力がある。なんというか、長身だけどひょろっとして童顔で、優しそうな雰囲気を纏っていて、文化系少年をやらせたら抜群の安定感があるのだ。
 
しかし、私は製作者たちがこれを乱用し、「彼を出してサブカルっぽいテーマと若者っぽい苦難と良さげな共演者を合わせればなんかそれっぽくなるでしょ」と安易な企画を連発しているという結論に至った。それは下記4作品を観てのものだ。
 
 

Time Freak

 
 
ソフィー・ターナーが彼女役とあらばこれは観ねばと若干浮足立って再生ボタンを押した『Time Freak』。これは序盤で脱落してしまったのであまりとやかくいう資格はないかもしれないが、ソフィーにフラれたエイサ君がうだうだしている下りが長いのだ。そして、2人には驚くほどケミストリーがない。ソフィーが大人っぽすぎるのだ。
 
普段は奥手だけど頑張って可愛いバーテンダーに声をかけてみる、失恋でうだうだしている、オタクとつるんでいる、タイムマシンを作っている、いかにもエイサ君なら良い感じに演じてくれそうな役だ。今や高校生のオタク役といえばこの人!という感じのスカイラー・ギゾンド君を親友役にキャスティングしたところも良くはあったのだが。
 

Then Came You / Departure

 
 
今度は同じ『Game of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』出身でもアリアとの共演だ。メイジー・ウイリアムズとの相性は非常に良く、恋愛を挟まない友達関係がとても可愛らしい。しかしこれは病気を使ったお決まりのお涙頂戴映画で、末期ガンの役のメイジーに破天荒なことを色々やらせたかったんだろうなというのが透けて見える。
 
エイサ君の役も悲惨な過去を抱えており、そのことやメイジーとの刻々と近づく別れに苦しむ。一方で例のごとくちょっと背伸びして(奔放なメイジーの後押しもあり)大人っぽい美人女性ニーナ・ドブレフにアプローチする。彼女にはタイタス・バージェス演じるGBF(Gay Best Friend)というおまけ付き。今回のオタクポイントは趣味の木彫りだ。
 
タイトルがなぜか2つあるが、『Departure』の方が分かりやすい。もうネタバレも何もないと思うので書いてしまうが、メイジーの天国への旅立ち、エイサ君の精神的成長、空港で働くエイサ君が実際に飛行機に乗る3つのDepartureがかけられていて、劇中最後にドヤァと表示される。
 

The House Of Tomorrow

 
 
今度は両親は飛行機事故で死亡、エコドームにおばあちゃんと暮らし、学校にも通わずホームスクーリングを受けている世間知らずなティーンという設定。ちょっと変化球で来たが、またいかにもじゃないか。ヴィーガンフードしか食べないし、音楽はクラシックかクジラの声しか聴いたことがない。エコドームにツアーで見学に来たうちの一人、ナット・ウルフと友人となり、彼の影響でロックに興味を持つ。
 
これもこの友人の病気を利用した成長モノで、彼は心臓病でいつ倒れてもおかしくないということが分かる。大変な設定が複数重なっていること自体は悪く言いたくないのだが(無理に分かりやすくしようとするのは現実でそういう状況にいる人に失礼)、この映画は両親の不在や若者の病気、エコ暮らしの現実等を掘り下げたいわけではなく、あくまでエイサ君の成長譚のための設定として消費しているだけだ。女性に不慣れな設定ももちろん健在で、友人の妹役であるモード・アパトーが優しく手ほどきしてくれる。
 

Ten Thousand Saints

 
 
極め付けはイーサン・ホークとの親子役。イーサンがこれまたきたぞ、というダメ親父チャンピオンな設定で、主人公が小さい時に浮気相手を妊娠させて家を出て行く。その浮気相手とお腹の子どもはどうなったのかも明かされず(中絶や養子に出すことを匂わせすらする)、主人公が大きくなってエイサ君になった頃には、(たぶん別の)ガールフレンドがいる。そしてなぜかそのガールフレンドの娘ヘイリー(父親はイーサンではない)をエイサ君の元に送ってくる。
 
大した助走もなくエイサ君とヘイリーが現れても2人とも現代の若者にしか見えないのだが、時代は80年代、エイサ君はハードコアにハマっており自身もかなりギターが弾けるという設定がある。父親のせいで荒れているのでドラッグもやる。が、そんなことはすぐ忘れてしまうくらいただ髪型がおかしなエイサ君にしか見えない(私くらいの年代だと00年代のエモ少年に見えてしまう)。多少グレてワルぶっているだけで、いじめっ子にはやられるし女の子には一途だし、だいたいいつものエイサ君だ。
 
序盤に悲劇が起こるので一気に重い展開になり、暗いトーンは続く。でも雰囲気はなんとなくcoming-of-age。悲劇に見舞われるのはマイノリティで、しかもその設定も肌の色を分かりやすくしたかったためだけのような気がして胸糞悪い。
 
途中でエイサ君が加わることになるバンドのメンバーたちはストレート・エッジという文化にかなり傾倒しており、エイサ&ヘイリーも影響を受けていく。このストレート・エッジに馴染みがないのでストーリーがすんなり入ってこないのか、当時こういうシーンで生きてたらもっとピンとくる話なのだろうかと思ったが、どうやらそうでもない。メンバーが傾倒しているのも半分はある事実の隠れ蓑にするためのようなもので、この文化にリスペクトのある作品とは言えない。
 
ヘイリーの母親/イーサンの現ガールフレンド役は『The Bookshop(マイ・ブックショップ)』のエミリー・モーティマーだが、役柄のせいかブリティッシュアクセントがこれ程ムカついた作品はなかった。ヘイリーの可愛さが唯一と言っていいぐらいの救いだったが、非常に不安定で女であることを都合良く利用しすぎた役柄だった。死や生を扱うのに話が雑すぎる。
 
要は『Sex Education(セックス・エデュケーション)』があって良かった、S3楽しみ!という話なのだが、セックス・エデュケーションでのエイサ君も、・大人しくて・オタクで・優しくて・でもちょっと反抗期で・女性に奥手なキャラの域を出ない。我々はエイサ君からのこの雰囲気の安定供給に頼りすぎなのだ。全く違う角度の演技が観られるのを楽しみにしながら、彼の出演作を観続けようと思う。