Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

『最後の決闘裁判』は誰のための物語なのか

映画をよく観る人であれば、感想について話すとき、好き嫌いは人それぞれで「だから面白い」と感じる人が多いと思う。私も嫌いな映画はとても多いけど、ただ「つまらない」と感じたものであれば、その作品を好きな人がどんなところを面白いと感じたのかはたいてい楽しく聞くことができる。
 
しかし、その感想が人の倫理観に及べば、それはもはや映画の内容についての話ではない。『The Last Duel(最後の決闘裁判)』についてのキネマ旬報の「なぜマルグリットは性被害を告発したのか」という文章が「そんな感想もあるだろう」と受け入れられず炎上したのは、そういうことだろう。
 
私にとっては、この映画が明らかにMeTooをテーマにしているにもかかわらず『羅生門』スタイルを真似ようとしたこと、性的暴行シーンを描いたこと自体が、弱者の尊厳を踏みにじる受け入れられない行為だった。そして、いくら悪気はなかったとしても、その行為が見渡す範囲のほとんどの人から賞賛されていることは、人間不信につながった。
 
こんなに許せない映画のために時間を割くのもばかばかしいけれど、これは映画表現だけの問題ではない。このままにしていると消化不良なまま作品名を見る度に心が削られていくだけなので、せめて感じていることを精いっぱいまとめようと思う。
 
羅生門』形式では女性に寄り添うことはできない
 
この映画は、騎士ジャン・ド・カルージュマット・デイモン)、その旧友のジャック・ル・グリアダム・ドライバー)、ル・グリからのレイプ被害を告発したカルージュの妻マルグリット(ジョディ・カマー)それぞれの視点から同時期の出来事を描いた3幕構成になっている。各幕のタイトルは"The Truth according to 〜(〜にとっての真実)"と名前が入っているが、3幕目のマルグリットのパートに入るときに"The Truth"の文字だけが数秒残されることで、マルグリットが真実を語っている前提であることがわかる。
 
MeToo運動から私たちが学んだことは、「声を上げた人に寄り添う」ことの重要性だ。それは盲目に被害者の証言のみを信じるということではなく、セカンドレイプを防ぐための措置であり、この問題に向き合うために求められる姿勢である。まだ事実を検証しなければいけない段階であるならともかく、誰が真実を言っているか結論を既に出しているこの作品で男たちの視点に時間を割くことは、たとえ結果的に彼らを断罪していても「いったん皆の話を聞いてみましょう」と中道しぐさをとることに他ならない。
 
この映画への主な賞賛で見る「有害な男性性、認知の歪みを描ききった」というのは、マルグリットのパートのみでは不可能だったろうか。いちいち男の目線からも描かないと、彼らの愚かさがわからないだろうか。それは今さら「浮き彫りにされた」ことだろうか。「マルグリットのキャラクターに惹かれ」、「危険を覚悟で声を上げた女性の物語」(WIRED)として作られたこの作品で、男たちのみのシーンはあれほど必要だったろうか。彼らにあれだけ時間を割くこと自体が、その女性にとって屈辱的なことではないのか。ひろゆきやら松本人志やらにジェンダー問題について発言の場を与えてはだめだとメディアに物申してきたのは誰だったか。
 
このスタイルが『羅生門』由来であることはマット・デイモンも明言しているが、羅生門の姿勢を否定しアップデートするということを意識した上であったとしても、「被害者も含む全員が嘘を付いている、真実はわからない」という建て付けである作品のスタイルを明確にオマージュすることは、今作の意図を伝える妨げになっている。現に、これだけクリアに宣言しているにも関わらず鑑賞後に「どれが真実なんだろう」と話す人(YouTube)や「マルグリットの平等志向は信ぴょう性が高いとはいえない」などと深読みする人(※当該ブログは現在削除)がいる。リドリー・スコット監督はそれを「アホか」と否定している(同YouTube内)が、自身の認識が甘かったのではないのか。
 

メッセージを伝えるために性的暴行シーンが必要な作品などいらない

 
小さな救いだが、レイプシーンについては批判の声も多数見かける。主な擁護の声は「描かないと事実を疑う人が出る」というものだったが、これは3幕構成と同じでMeTooの伝えてきたことに不誠実だ。作品としてはあくまで事実を目撃したからでなく「あなたがそう発言したから信じます」と言う姿勢を示すことが必要なのだ。
 
エロ消費でなく暴力として描き切ったという評価もみかけたが、レイプがひどい暴力であることの再確認は本当に必要だろうか。インティマシー・コーディネーターを入れ、ジョディ・カマーが覚悟を持って臨みアダム・ドライバーがリスペクトを持って作っても、女性への性暴力描写が女性の尊厳を踏みにじるものであることに変わりはない。わかっていて酷いシーンは酷いシーンとして必要性を感じながら観られたというなら、それがコンテンツ消費じゃなくてなんなのか。
 
私はこれまでフィクションのレイプシーンで辛くなったことはあまりなかったが、これは本当に泣きそうなほどだった。それは詳細な描写と迫真の演技のせいでもあるけれど、この映画が一見女性に対して良心的な意図を持って作られているようなのに女性を痛めつけるばかりだったので、このシーンがダメ押しになったのだと思う。男性社会を批判するための作品が、結局批判の対象と同じことをしてしまっているのだ。
 
注意書きを入れればいい、辛くなりそうな人は観なければいい、無知な男性の教育になればいいと思った人は、ちょっと立ち止まって、この映画が(少なくとも制作陣の表面上の意図の上では)誰のためのものだったのかをもう一度考えてみてほしい。どうしてもはっきりさせておきたいというなら、ダサくなっても直接描写はせず「レイプシーンは省略します」とでもテロップを入れておけばいいのだ。『Promising Young Woman(プロミシング・ヤング・ウーマン)』では証拠としてのレイプ映像をスマホで見ているという描写でそのスマホ画面は写さないという巧みな方法をとったが、それでも「肝心の部分は見せていないのだから真相はわからない」と疑う声があった。しかしそこで「こういうこともあるから見せれば良かった」と思った人はどれだけいたのだろうか。無知な人達のためにエンタメを後退化させ、人を傷つけることなど映画ファンとして望んでほしくない。
 
本気でこの問題について世の中を啓蒙する気があるのなら、女性の物語を男性主導でエンタメ化することは決してそのための正しい道ではない。女性の物語として尊厳を持たせるものが作れないなら、もっと人を傷つけずにできる方法を教育や政治の現場に飛び込んででも模索すればいい。
 
カルージュによる夫婦間のレイプも描かれていたが、女性がモノとしか見なされない社会で夫婦関係というもの自体の始まりが欺瞞であり、同意など大事にされず心を無にしながら妻が耐えていたという事実も、何も新しいものではない。改めて描写が必要な理由は何だったのだろうか。女性によるセカンドレイプも、「こういうことを言うのがセカンドレイプですよ」と言わんばかりの説明臭さしかなく、その時代に生きる女性のさまざまな苦しみを深みをもって描くつもりなど微塵も感じられなかった。
 
今年同じような文脈で批判されたものに、Amazon Primeのドラマ『Them(ゼム)』があった。1950年代、白人ばかりが住むエリアに越してきた黒人家族が、隣人からも超常現象からも徹底的に痛めつけられる人種ホラーだ。彼らは戦う意志を見せこそするものの10話に渡って怯えつづけ、同作は一体これがtorture pornでなくてなんなのかと激しい批判を浴びた。作品自体を批判せず「辛い人は観なければいい」とだけ言った人は決して多数派ではなかった。

 

禊になってない

 
企画脚本のベン・アフレックマット・デイモンに、今回の題材に関連して決して誇れない過去があることも私がこの作品を否定的に見る大きな要素の一つになっている。テレビ出演中に共演者の胸を掴んだアフレック(ELLE)とMeToo問題に対して「みんな報復しようと多くのエネルギーを割いている気がする」などと不用意な発言をしたデイモン(Rolling Stone)は、それぞれ謝罪はしているので私がそれが十分かをジャッジするのも違うとは思う。しかし彼らがこの題材を扱うことは本人たちの意図がどうあれ禊の意味合いを含むし、実際そのつもりだったと思う。
 
それなのにろくに考えずに3幕構成を決め(女性脚本家のニコール・ホロフセナーとMeToo団体の監修を入れたとはいえ6週間でこの脚本を書いたというのは批判に値すると思う)決闘を撮るなら彼だよねといってリドリー・スコットに企画を持ち込んでいる時点で、それは単に題材を利用し自分たちが称賛されるかっこいいエンタメ作品(それがどれだけ皮肉を含んでいたとしても)を作るだけの試みになってしまう。実際フタを開けてみればプレスのとりあげ方は「ベンとマットが24年振りに共作!」と2人にスポットを当てるばかりだ。
 
本当にこれまでの埋め合わせをする気があるなら、現代劇でそれぞれ本人役で出演し、自分自身を断罪したらどうか。そこまでいかなくても、中世フランスという設定は自分たちから批判の矛先を遠ざけ時代設定の魅力を借りすぎではないのか。
 
男が自身の株を上げ、ついでに男を教育するためにこの題材を扱うことのグロテスクさ、その扱い方の稚拙さを批判せず、キネ旬の批評家ばかりを批判する人たちは、女性を拷問する物語を消費したことの罪悪感から目を背けているだけではないのか。
 
私がどれだけ怒ったところで、人の評価が簡単に覆らないのはわかっている。それはほかの題材に関して、この記事のような言い分がまるまる私に跳ね返ってきたことがあるからだ。当事者からのそこまでの訴えを見てもまだ、私のその映画に関する評価は変わっていない。要は、どれだけ自分ごとに寄せることができるかなのだ。ただ、そうした当事者を前にして簡単にその作品を賞賛しないデリカシーと、学び考え続ける姿勢は持ちたい。
 
この映画を楽しんだ人が、この記事を読んでピンとこなかったとしても、フェミニズムMeToo問題についてさらに学んでくれたらと思う。
 

 

追記※これだけ「賞賛されているのを見るのがつらかった」と書いたのに反論になってない反論を長文でコメントされたのでコメント欄は閉じました。私にこれ以上平易な言葉で説明する義務も人の正しさの証明に付き合う義務もありません。違う意見を持つのはけっこうですが自分のブログなりSNSでやってください。すべて「そうは思いません」で返します。