ピンクはエンパワメントのピンク(私にとって)

小さい頃の自分の写真を見ると、今となってはとても自分とは思えないほどいわゆる"女の子らしい"格好をしていることがある。ひらひらしたスカート、レースの袖口、下ろした長い髪にカチューシャ。ピアノの発表会は母お手製のドレスを着て出た。色も、基本的には多くの友達の女の子同様ピンクが好きだった。
それがいつからか、ドレスのリボンはピンクじゃなくて青がいい、ドレスは着たくない、パンツスーツがいい、と変わっていった。その折々に母は寂しそうな顔をした。小学校で使う絵の具セットのバッグはパステルカラーのピンクかサックスが選べて、私はサックスを選んだ。ほかにも何人かサックスを選んだ女子がいた。ピンクを選んだ男子は、たしかいなかった。習字道具セットは濃いピンクか緑が選べて、私はクラスの女子でただ一人緑を選んだ。母は反対したが、私の粘りに負けた。
いま好きな色を問われたら、たぶん青と言うと思う。服もモノトーン系かネイビー・茶系にデニムやシャツが青いことがあるくらいで、スカートをはくことはあるが、ストンとしたラインのものだ。
この好みは、もはやどこまでが自分の純然たる"好き"で、どこまでが世の中に規定された"女の子らしさ、女性らしさ"への反発で、どこまでが"女として見られたくない""(世の中の美の基準に照らし合わせて比べられたくないから)体型を隠したい"あるいは目立ちたくないといったネガティヴなものなのか、きっちり測ることはできない。幼少期からすべての要素が複雑に絡んで、達人でも解けない知恵の輪みたいになっている。そもそも何かの影響を受けないことは不可能だし"純然たる好き"なんてないのかもしれない。それでも、ネガティヴな影響がない状態の自分だったらどんなものを好んだのか、一生知ることはないのだろうと考えると無性に悲しくなる。
映画『バービー』のピンクの世界が私にとって心躍るのは、そうした世の中の"影響"など皆無の、"純然たる好き"でできているように見えるからだと思う。この世界の住人は、ピンクやポップなカワイイものを心から愛し、楽しんで身に付けている。そこに発生するのは「それとっても可愛いね!」「お互い好きなものを着れて楽しいね!」でしかない。それが人工的な世界で、その"好き"は企業によって方向づけられたデザインであることはわかっているのに、その存在に救われてしまう。ピンクはもうそんなに好きじゃない、というか自分には合わないと思っていたけど、このピンクは好きになれた。今ピンクが好きな人を肯定するだけでなく、私みたいにいつしかピンクを避けるようになってしまった人も、また好きになってもいいんだよと元気づけられているような気がした。映画館に『バービー』を観に行った時は、私もミーハー心を発揮しピンクの差し色が入ったカットソーを掘り出して着た。お祭りに参加した気分になって楽しかった。
忘れてはいけないのは、このバービーの世界はあくまでピンクやポップを楽しめる、一部の人向けのものでしかないということだ。私はたまたまかつてピンクが好きな女の子だったし、まだこの世界が表す"女性"に自分も含まれていると思える素地がある。映画の中でも、服装は必ずしもピンクではなく、世界観に合った青や黄色の服もあった。いろんな体型のバービーがいたし、いろんな人種もいた(東アジア系は目立つところにはケンしか見当たらなかったけど)。作品を観ただけではわからないが、トランスジェンダー女性の役者が演じるバービーもいた。でもそれは男女二元論の世界だし、たとえば真っ黒い服が好きな人や、バービーにもケンにもアランにも自分を重ねられない人には、居場所があるようには感じられないかもしれない。
こうした包摂性や男女の二項対立構造に目を向けると、ユートピアだったはずの世界がとたんにディストピアに見えてくる。この映画はそういう話ではあるが、私はどこかフィクションの中に"完璧なユートピア"を探し求めている節があるのだと思う。そんな世界があるとしたら、そこは何色だろうか。