Coffee and Contemplation

海外ドラマや映画、使われている音楽のことなど。日本未公開作品も。

優しいロックスター×アルフィー・アレンは最強の組み合わせ

ブコメが好きで、いつかラブコメに出てほしいと思っている俳優が何人かいる。アルフィー・アレンもその一人だったが、ラブコメとはちょっと違うもののそれに限りなく近い作品にこんなに早く出てくれるとは思わなかった。ビーニー・フェルドスタイン主演『How To Build A Girl(ビルド・ア・ガール)』だ。
 
 
作家・テレビ司会者のキャトリン・モランの半自伝的同名小説が原作で、大家族でイギリスの片田舎の公営住宅に住み学校の友達もいない彼女が、若くしてNMEみたいな媒体でライターとして成功し、大人の世界で揉まれる様を描く。アメリカ人のイメージが強いビーニーがWolverhampton訛りを頑張って田舎の労働階級感を出している。実際街なかのギフトショップで働いて練習したらしい。(アクセントはイギリス人からは好評価だけではないっぽい)
 


キャトリン(今回の役柄ではジョハンナ)はフェミニズムについてのエッセイ本も出しているフェミニストで、日本では北村紗衣先生による『How To Be A Woman』の訳書『女になる方法 ―ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』が出ている。ビーニーの配役はご本人指名だったということからも分かるように本人も大柄で豪快な感じの人なのだが、その自己肯定的なマインドは女性作家の本をたくさん読んで育ったことで培われたらしい。ジョハンナの部屋にはジョー・マーチ、ブロンテ姉妹といった彼女のアイコンたちの写真が飾られており、アルフィーの姉のリリー・アレンエリザベス・テイラーマイケル・シーンフロイト医師、ジャミーラ・ジャミールがクレオパトラ役で壁面に登場する。
 
 
文才を買われ音楽業界に飛び込んだジョハンナだが、書くのはライブのレビューばかり。そんなジョハンナが初めてインタビューするミュージシャンがアルフィー演じるジョン・カイトだ。既に大物スターの設定だが、不慣れなジョハンナを叱ったり雑に扱ったりするのではなく、優しい眼差しで導いてくれる。キャトリン自身が若い時に、彼女を搾取せず友達になり守ってくれたロックスターたちがモデルだという。その一人はElbowのガイ・ガーヴェイで、ジョン・カイトの曲は彼が書き下ろしただけに限りなくElbowっぽい。アルフィーの歌声もぴったりで、いかにもこの時代のイギリスにいそうな感じになっている。
 
 
この作品のクリエイティブチームは全員女性で、アルフィーの母のアリソン・オーウェンもプロデューサー陣に入っている。しかしアルフィーをジョン役にプッシュしたのはキャトリンで、Glastonburyのバックステージで酔っぱらいながらもツイードのコートを着てカッコいい佇まいをなんとか維持していたアルフィーを見かけ、キャスティングは彼しかいないと決めたという。原作ではジョンは大柄の設定のため、当初はアルフィーに増量してもらう案もあったがボツになったらしい。
 


これまで私の中の理想の男性フィクションキャラNo.1は『Trainwreck(エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方)』でビル・ヘイダーが演じた医者のアーロン・コナーズだったのだが、ジョン・カイトはこれを塗り替えた。ジョハンナは若干16歳なので、ジョンは手を出したりしない。だから余計に2人のシーンが甘酸っぱい。ロックスターだからといって、女にだらしないクソ野郎である必要はないのだ。
 
対照的に、ウケるからとバンドをけなすレビューばかりジョハンナに書かせ、彼女をいいように利用するNME(もどき)の編集部。ジョハンナもセレブライター扱いされることに味を占めてしまい、危険な道へと進んでいく。酷評レビューがウケるというのが何とも彼の国っぽい。
 
16歳なのに…と終始ヒヤヒヤしてしまうが、半分実話だと分かっていることもあり決して説得力のない物語ではない。話はよくあるcoming-of-ageモノと言ってしまえばそれまでだが、ジョン・カイトの抱擁力と物憂げな佇まいだけでアルフィーのファンにはお釣りがくると言ってもいいと思う。
 
ジョハンナの兄を演じるのは、『England Is Mine(イングランド・イズ・マイン モリッシー,はじまりの物語)』ジョニー・マー役で『Derry Girls(デリー・ガールズ ~アイルランド青春物語~)』や『Des(デス)』にも出ているローリー・キナストン。父役のパディ・コンシダインもいい味を出している。NMEもどき編集部のクソ野郎には『Fear the Walking Dead(フィアー・ザ・ウォーキング・デッド)』のフランク・ディレイン(彼の実父は『Game of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)』のスタニス・バラシオン役スティーヴン・ディレインだと後から知った)。エマ・トンプソンも出番はちょっとだが美味しい役で出てくる。
 
 
原作小説は続編が出ており、さらにジョンとの関係やBritpop時代の音楽業界のセクシズムを描くという。キャトリンが続編のサントラとして作っているプレイリストを見ると、これも映画化を願わずにはいられない。
 
 
続編映像化の予定ははまだなさそうだが、キャトリンのさらに若い時の話はChannel4で『Raised By Wolves』というドラマになっている(HBOの同名作品とは別モノ)。こちらは妹のキャロラインと一緒に脚本を書いたコメディで、お父さんやお兄ちゃんがいなかったり、代わりにおじいちゃんがいたり姉妹が増えていたりと設定が変わっているが、大家族であることに変わりはない。より健全で明るくて子ども向けにもいける『Shameless(恥はかき捨て)』といったところか。この主人公が後に音楽界で成功していくのだと思いながら観ると楽しい。
 

自分たちのコミュニティは、自分たちで描く

ロンドン時代、家のあるEalingと中心部の繁華街の間にあるNotting Hillは好きな街だった。アンティーク市やお洒落な街並み、ヒュー・グラントの本屋のNotting Hillだ。せっまい部屋に住んでいたのでお洒落な家具や置物など買えず、クリケットのボールを買ったのを覚えている。

 
毎年のノッティング・ヒルカーニバルにも遊びに行った。いつもスティールパンを奏でる人たちがいたので、カリビアンルーツの人が多い地域なんだろうなというのは何となく知っていた。けれど、そこにどんな歴史があったかは知らなかった。
 


ノッティング・ヒルを含むロンドンのブラックカリビアンコミュニティに光を当て、彼らの歴史と日常を切り取ったのがスティーヴ・マックイーン監督の映画アンソロジー『Small Axe(スモール・アックス)』(英BBCスターチャンネルEX)だ。『12 Years A Slaveそれでも夜は明ける)』でオスカーを受賞し黒人映画の道をさらに切り拓いたマックイーン監督だが、彼のルーツは西ロンドンにある。彼らの独特の言葉遣いやアクセント、カレーなどの食文化、パーティーシーンをメインストリーム映画で描くこと自体に、どれだけ意義があったことか。放送日のTLは、毎週自分の家族の思い出などを語る人々の言葉で溢れていた。
 

 

 

Mangrove

 

 

『Mangrove』は、1970〜71年の「マングローブ事件」が題材となっている。日本語ではほとんど情報が見当たらないが、小林恭子さんの記事が詳しい。無料部分だけでもかなり背景が分かる。BBCでは放送に合わせ、かなり詳細に関係者のインタビューを含めた特集をしている。
 

 

The Mangroveは当時地域コミュニティの支えだったレストランで、ボブ・マーリージミ・ヘンドリックスニーナ・シモンダイアナ・ロスマーヴィン・ゲイなんかも訪れたという。ここを拠点に集まっていたのがレティーシャ・ライト演じる英国ブラックパンサーのメンバー、アルシア・ジョーンズ=ルコワントら活動家たちで、人種差別的な警察の度重なる横暴に抗議し150人規模のデモを組織、警察署まで行進した。
 
アルシアやThe Mangroveのオーナー、フランク・クリッチロウ(ショーン・パークス)ら、暴動を扇動したとして逮捕され裁判にかけられた9人は、Mangrove Nineと呼ばれた。1968〜70年のアメリカの出来事を描いた『The Trial of the Chicago 7(シカゴ7裁判)』と同じ年に公開されたことが偶然とは思えないほど、公正さに欠ける判事の態度まで状況が似ている。判事役はイラつくしゃべり方がピッタリのアレックス・ジェニングス(The Crownのエドワード王子役)。Nine側の弁護士イアン・マクドナルドはジャック・ロウデンが演じた。アルシアを含む何人かは弁護士を付けないことを選んだため、彼らが雄弁に自己弁護する場面も見どころとなっている。『シカゴ7裁判』のようにドラマチックな劇伴などはないが、ユーモアを忘れない彼らのやりとりに終始目が離せない。
 
Mangrove Nine裁判の公的な記録はなく、地元紙Kensington Gazetteの記者が裁判所に毎回通い全てを記録していたこと、研究者によるインタビューが何時間分もあったことで監督は当時の彼らの言葉を入手することができたという。公文書はちゃんと保管しろよという話なのだが、地域の報道の末端に携わる者としてはとても感慨深い。
 


Lovers Rock

 

 

『Lovers Rock』の舞台はMangroveの少し後の1980年代、Notting Hillと同じエリアのLadbroke Groveだ。当時クラブに入れなかったブラックコミュニティの人達がBluesと呼ばれたハウスパーティーを楽しむ一夜の様子をひたすら描く。ハウスパーティーといっても音響機材は本格的で、50pの入場料をとり、家で仕込んだフードも販売していた。主人公マーサは、夜にこっそり家を抜け出してこうしたパーティーに行っていたマックイーン監督のおばがモデルだという。
 
マックイーン監督の言葉では、当時女性が好むようなsweetな曲がなかったことから生まれたのがラヴァーズ・ロックだ。DJたちが流す曲の中にはほぼフルトラック聴けるものもある。この作品の主役は音楽でもあるのだ。『Kung Fu Fighting』のイントロが流れると、皆ファイティングポーズをとらずにはいられない。そしてクライマックス『Silly Games』の大合唱シーンは、監督から指示したものでなく「皆歌ってくれたらいいな…」と思ってレコードを止めたら本当に自然発生的に歌い始めてくれたらしい。
 

 

楽しいだけでなく、居心地の悪いシーンもある。マーサと友達のパティがパーティーに着くなり男性たちから声をかけられ若干警戒する感じは、クラブなどに行ったことがあれば分かるだろう。パティを探して外に出たマーサがすぐに白人男たちに絡まれそうになる場面もある。そういう危険もすべて含めて、一夜の経験として描きたかったのだと思う。ただ一つこれは…と思ったのは、レイプシーンがあり、止められた犯人がシレッと室内に戻って踊っているところだ。Twitterでも言及している人が数人だけいたが、ストーリーを進めるためにレイプを使わなくても良かったのではと思う。
 
煙が充満していた夜の室内とは対照的な朝帰りの自転車のシーンは、まるでこちらも生暖かい風を切っているかのようだった。今年の個人的ベストショットを挙げるならこれにしたい。
 
 

Red, White and Blue

 
 
3作目『Red, White and Blue』では、National Black Police Association創立者でMBE(Member of the British Empire award)も授与されている元警官リロイ・ローガンをジョン・ボイエガが演じた。夏の間自らもロンドンでBLMムーヴメントに身を投じ熱い言葉を世界に投げかけてきた彼には、彼にしか出せない説得力と迫力がある。
 
イギリスの警察の内部から状況を変えようとする姿は、『Detroit(デトロイト)』で彼が演じた警備員の役とも重なる。良かれと思って黒人と白人の間の橋渡しをしようとしても、白人からは差別され続け、黒人からは「裏切り者」と蔑まれる。
 
妻役は『Misfits(ミスフィッツ)』のアントニア・トーマス。近年アメリカ版『The Good Doctor(グッド・ドクター 名医の条件)』で活躍している彼女を含め、ジョン・ボイエガレティーシャ・ライトもすっかりアメリカが主舞台のイメージだが、彼らのルーツはロンドンなのだ。アメリカ人アクセントが上手いなあ、などと呑気に思ってしまうが、それだけイギリスでは黒人俳優に与えられる機会が少ないということでもある。
 
ボイエガは、マックイーン監督とはもう次の仕事も計画しているらしい。
 

Alex Wheatle

 
 
アレックス・ウィートルは、このシリーズの脚本チームに元々参加していた小説家だ。自身の若い頃をベースにした作品を書いていたが、「スラムをテーマに書く黒人作家」の枠でしか評価されないことに反発し、ヤングアダルト作品を手がけるようになったという。彼もリロイ・ローガン同様MBEを授与されている。(wikiには邦訳本が出ているという情報もあるのだがその詳細は見つからなかった)
 
構想段階で彼の物語を取り上げたらどうかとチームの一人が提案し、監督からは自ら筆を取ることも持ちかけられたが、他の人に書いてもらうことにしたらしい。
 
Shirley Oaks Children's Homeという、後の2014年に1,700人以上の児童への虐待を告発された養護施設にいた彼は、自分のルーツを知らないまま育った。16歳でBrixtonのホステルに引っ越してから、新しい友人たちに言葉遣いやファッション、警察は味方じゃないということを教わる。
 
劇中では13人の黒人の若者が亡くなったNew Cross火災や1981年のBrixton暴動も扱われ、暴動後に逮捕されたアレックスが刑期中に文学に出会い、作家活動を始めるまでを描く。
 
小さい頃に一時期をジャマイカで過ごしたため黒人の政治家も警察官も医者も存在することを知り、自身のルーツへの誇りと将来への希望を持っていた前作のリロイに対し、アレックスはBrixtonに来て初めて入った美容室で「自分はアフリカンじゃない、Surrey出身だ」と言う。後の功績はもちろん彼の努力や才能あってのことだが、刑務所での出会いといい、環境がいかに人のアイデンティティ、人生を左右するかを感じさせる回だった。
 

 

Education

 

 

5作目『Education』の主人公キングスリーは、IQテストの成績が悪かったからと12歳のある日特別支援校に転校させられる。実際テストはイギリスの文化を知らなかったり英語が第一言語でなかったりする移民の生徒に不利な作りになっており、70年代当時名ばかりの特別支援校に行かされるのはカリブ系の子ばかりだったという。
 
キングスリーにはディスレクシアの兆候があったが、学校には動物の鳴き声をずっとマネしている子もいれば勉強に何の問題もなさそうなキングスリーよりずっと歳上の黒人の女の子もおり、皆それぞれのニーズに関係なく同じクラスに押し込まれ、先生には放置されていた。要は差別的な隔離政策がそうと言わずに行われていたのだ。
 
具体的にどの部分とは言っていないが監督自身の経験も混ざっているらしく、リサーチしていくなかでこうした学校の存在が明らかになったという。この状況を変えようと動く団体の女性の一人をナオミ・アッキー(『Star Wars: The Rise Of Skywalker(スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け)』、『The End of the F***ing World(このサイテーな世界の終わり)』)が演じる。
 

 
マックイーン監督の作品を全て観たわけではないのだが、このThe Playlistのレビューが言うように、その幅の広さに驚く。他の作品にあるダークで衝撃的な要素も確実にあるのだが、『Lovers Rock』や『Education』の柔らかい視線が私は何倍も好きだ。
 
これらの物語を語ってくれた人たちが死んでしまう前に映像化し見てもらいたくてテレビ放送にしたと語るマックイーン監督。ガーディアンが『Mangrove』のレビューに「こんな面白い話より先にジェーン・オースティン全作品5回ずつ映画化して、連続殺人犯全員3話連続ドラマにしなきゃいけなかったのか」と書いていたが、このシリーズは本当にrepresentationに尽きる。
 

 
映画祭でお披露目されながら英BBCと米Amazon Primeでの放送・配信だった経緯もあり、映画とは/テレビドラマとは、を改めて問う作品でもある。賞レースでは果たしてどのような扱いをされるのだろうか。
 
最後に、劇中聞き慣れない単語がいろいろあったので調べたものを書き留めておく。実際はもっとたくさんあったと思うけど。
 
cunumunu - カリビアスラングでバカな人のこと
raatid! - 驚きを表すジャマイカの言葉

 

思い出をレトロカルチャーにする作品たち

80年代くらいのロックやダンスミュージックが好きだ。マッチングアプリのプロフィールに好きなバンドを書けと言われたら、The SmithsとかThe Cureと書くと思う。そういう音楽を使った『The Perks of Being a Wallflower(ウォールフラワー)』や『Sing Street(シング・ストリート 未来へのうた)』は今でも好きな映画ベスト8くらいには入るし、『Guardians of the Galaxy(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー)』や『Stranger Things(ストレンジャー・シングス 未知の世界)』のサントラは擦り切れるくらい聴いている。

 

でも私は87年生まれなので、リアルタイムでそういう音楽を聴いていたわけではない。これはあくまでエセ懐古趣味だ。私が子どもの頃から聴いていたのは、HansonとかSavage GardenとかBSBとかSpice GirlsとかのアイドルやOasisとかBlurとかのBritpopで、80年代のバンドではない。覚えている一番古い流行りのポップスは幼稚園で皆が歌っていたチャゲアスのヤーヤーヤーだ。
 
私にとってレトロといえば80年代かそれ以前のことで、自分の生きる時代はそれには当てはまらないと思っていた。それが変わり始めたのは、私が聴いていたボーイバンドが"再結成"しだしたあたりだ。そういうのって、おじさんになってからもうひと稼ぎしようとやるもんじゃないの?と思ったが(いやいつどう活動してようと彼らの勝手なのだが)、よく考えると彼らもいい歳だった。
 
さらに決定的だったのが、ブルーノ・マーズとカーディ・Bの『Finesse(Remix)』だ。90年代カルチャーにオマージュを捧げたPVを見て、ああ、ついに私の幼少時代も懐古される対象になったのだ、と思った。
 
 
今年は映画でもそれをしみじみと感じることになった。83年生まれのジョナ・ヒルが監督した半自伝的作品『mid90s(ミッドナインティーズ)』だ。スケボー文化も90年代のヒップホップも私が当時好んで触れてきたものではないけれど、近くにあった。80年代を舞台にした作品とは違う感慨があるのだ。
 
 
トドメはドラマ『PEN15』(米Hulu)だった。同じ87年生まれのマヤ・アースキンとアナ・コンクルが描く2000年代前半の中学校生活は、あまりに痛々しい。後からwikiでcringe comedyという呼び方があることを知ったが、初めての生理でタンポンのデカさに慄いたり体毛の処理で大騒ぎしたりといった体の成長への戸惑い、何かと噂して酷いあだ名を付ける中学生の残酷さはどの年代でもあまり変わらないのだろう。
 
 
当時の思い出を呼び起こすだけでなく、それを取り巻くカルチャーは、もう完全に"レトロなもの"として描かれている。カラフルでスポーティーなファッション、スケルトンの固定電話、ダサいユーザー名でやり取りするAOLのメッセンジャーアメリカが舞台なのですべてが自分の通ってきたものではないけれど、当時教育テレビで見ていた海外ドラマではおなじみの光景だった。
 
B*Witched、マンディ・ムーア、*NSYNCS Club 7、Lit、K-Ci & JoJoといった音楽に至っては、もう流れる度に懐かしさで悶絶している。今でも根強い人気があり常に新しいファンも獲得しているであろう80年代のバンドたちと違い、この年代の特にこういう安っぽいポップはすっかり消え去ってしまった印象がある。TLCやDes'reeの名曲の使い所も完璧で、前よりよっぽど好きになった。
 
『Dash & Lily(ダッシュ&リリー)』の日本文化描写がひどいという話を先日書いたばかりだが、日系のマヤ・アースキン自身がクリエイターを務める本作は安心感がある。さすがに中学生になってもシルバニアファミリーで遊んではいなかったなとか、逆にまだこんなに性的なことに興味なかったぞというのはあるが、30代が子どもに混じって中学生を演じているという可笑しさにさえ慣れてしまえば名作だ。
 
同年代で似た文化的バックグラウンドを持つ優れたクリエイターが存在することは、それだけで心強いし、エンタメへの信頼感となる。2000年代後半、2010年代が"レトロ"になるのはいつだろうか、それを作品で体現するのは誰だろうかと今から楽しみにしている。

奴隷制度を終わらせることはできなかったが、奴隷制度を終わらせた戦争を始めた英雄

イーサン・ホーク肝入りのプロジェクトということで楽しみにしていた『The Good Lord Bird』(Showtime)。「狂人」として伝えられることが多いという奴隷制度廃止運動ジョン・ブラウンを、彼が“解放”した元奴隷の少年ヘンリーの視点で描く半フィクションだ。
 
 
7話完結のミニシリーズで、あまりに面白かったので途中でジェームズ・マクブライドの原作小説(とイーサン表紙の雑誌笑)を買った。まだドラマと照らし合わせてパラパラとめくった程度だが、かなり忠実に映像化した印象だ。
 

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そもそも私はこのジョン・ブラウンという人をまったく知らなかった。アメリカでも授業では教えないか、教えても無茶な戦いで身を滅ぼしたcrazyな人という一面しか伝えられないという。『The Magnificent Seven(マグニフィセント・セブン)』では元南軍兵士を演じたイーサンは、同作撮影監督のマウロ・フィオーレに「君はジョン・ブラウン役に合うと思う」とこの小説を勧められたのがきっかけで、彼の物語にのめり込んだらしい。
 
話はジョン・ブラウンが処刑されるところから始まり、ブラウンとフィクショナルキャラクターのヘンリーとの出会いへと遡る。奴隷とはいえ父親と共に床屋として働き、それなりに穏便な生活をしていたヘンリー。ある日客として来たブラウンがヘンリー親子の主人といきなり銃撃戦を繰り広げたことで父親を失い、責任を感じたブラウンはヘンリーを一行に引き入れる。その際名前をヘンリエッタと聞き間違えたため女の子と勘違いし、ヘンリーはそのまま女の子(あだ名オニオン)としてブラウン一味の仲間となる。
 
奴隷を解放し自らの元で面倒をみたと言えば聞こえはいいが、いきなり父親を殺され武装した男たちの所へ連れて行かれたのだから、オニオンにとってはとても状況が改善したとは言えない。自分には優しくしてくれるが時に奴隷制度擁護派を容赦なく殺すブラウンが怖くなり、オニオンは幾度となく脱走を試みる。どうしても白人救世主的な話になってしまうのではと懸念していたが、こんなオニオンの視点で描かれるので、そこは絶妙なバランスになっている。
 
高い志を持つが、過激で、無茶で、敬虔なキリスト教信者で、何かと長々と聖書を引用し、動物を愛するブラウン。おそらく本人はいたって真摯なのだがどこか滑稽に見えてしまう感じを、イーサンが熱演する。戦いの度に本当に大仰なスピーチをかますので、その迫力につい惹き込まれてしまう。そんなブラウンたちが本当は男の子であることすら見抜けない(道中で出会う黒人にはすぐバレる)オニオンを演じるのは、新人のジョシュア・ケイレブ・ジョンソン。最初は一歩引いた目線でありながら、次第にブラウンに傾倒していく。
 
『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』でイーサンの息子役を長年演じたエラー・コルトレーンも、出番は極めて少ないがブラウンの息子の一人サーモンとして出演し、毎回オープニングクレジットに名前が入っている。そしてイーサンの実の娘マヤ・ホークもブラウンの娘アニーとして第5話に登場し、オニオンの恋の相手となる。フレデリック・ダグラス(ダヴィード・ディグス)やハリエット・タブマン(ザイナブ・ジャー)といった、歴史上の英雄たちの登場も見どころだ。
 
絶妙なバランスではあるが、やはり奴隷解放運動の話で一番目立つのが白人で良いんだろうかというのは頭の片隅にずっとあった。しかし最終話でこの作品は、主役は誰なのか、この戦いは誰のためなのか、決して忘れてはいないというメッセージをそこかしこに入れてくる。さらに第3話を担当したダーネル・マーティン監督のインタビューを読んで、背筋が伸びた。
 
ジョン・ブラウンは自分の子どもたちも一緒に犠牲にしてまで奴隷解放運動に身を捧げた。献身のレベルが違う。

白人がトーマス・ジェファーソンその他のracist motherfuckersを崇拝するのをやめてジョン・ブラウンを救世主にするまで、BLMは白人にとって本当に重要な問題とならないだろう。
 
ジョン・ブラウンはcrazyではない。子どもを親から引き離して殺したり奴隷にしたり虐待する方がcrazyだ、ジョージ・フロイドの首を踏み付けるほうがcrazyだ」
 

女の体は女のもの

今年は妊娠・中絶を描いた映画を立て続けに観た。観たのはたまたまではあるが、この題材を扱った作品はとても多いらしい。中絶の権利が制限されてしまうかもしれない地域もあるのだから当然のことかもしれない。日本も産婦人科学会があれでは他人事ではない。
 
 
12月4日公開の『Portrait of a Lady on Fire(Portrait de la jeune fille en feu燃ゆる女の肖像)』は、それがメインテーマではないが、中絶シーンがある。主役2人のラブストーリーも絵画のように美しいのだが、私にはこちらの方がとても印象に残った。こんなにきれいな中絶シーンがあるだろうかと思った(時代的に手法が古いだろうことは別として)。この作品は全編を通して端役で男が出る以外は本当に女の世界で、妊娠していることもサラッと明かされ、相手の男性には一切触れられない。妊娠している本人がどうしたいかだけを訊かれ、その答えに黙って寄り添う。そのことがどれだけ心地良いか。
 
 
96年の作品だが、『Citizen Ruth』も良かった。妊娠したヤク中のルース(ローラ・ダーン)を巡り、pro life派とpro choice派が一大闘争になっていく。本人の希望はそっちのけで政治利用しようとする人たちの滑稽さを描くコメディだ。結末がああならなかったらルースにとってどうするのが正解だったのか、本当に難しいと思う。ローラ・ダーンがとにかく最高だ。
 
『USムービー・ホットサンド』トークイベントで宇多丸さんが勧めていて気になっていたのだが、アレクサンダー・ペイン監督の未成年性的搾取を告発するニュースで思い出したのがきっかけで観たので、ちょっと苦い気分は残った。

eiga.com

 

 
『Never Rarely Sometimes Always(※邦題追記:17歳の瞳に映る世界)』は、ティーンが親の同意なしに中絶してくれるクリニックのある街まで、従姉妹と2人で旅する様子を描く。妊娠・中絶を描いた作品は多いらしいと書いたのは、この作品が賞を獲った映画祭の関係者が、毎年数あるティーンの妊娠を扱った作品の中でもこれは光っていたと発言していたからだ(ベルリン国際映画祭銀熊賞を獲っているが、どの記事だったか忘れてしまったので誰の発言かは分からない)。
 
ここでも父親の役割はまったくなく、状況を知った従姉妹は無言で旅に付き添う。道中は徹底して淡々として世知辛く、ものすごくまともで丁寧なクリニックの対応と、2人の信頼関係に救われる。
 
 
『Unpregnant』(HBO Max)は、ティーンのロードトリップという設定は共有しながらも、『Never Rarely~』とは対極にあるベタな爽快青春エンタメムービーといった体の作品だ。直後に観るとカーチェイスシーンなどはもはやあまりにファンタジーすぎて笑ってしまうが、こういう観やすい作品でこのテーマを丁寧に描くことは重要だろう。
 
主人公を演じるのはヘイリー・ルー・リチャーソドンで、親友だったけどいつしかつるまなくなったはぐれ者役のバービー・フェレイラが旅のお供になる。ドラマ『Euphoriaユーフォリア)』では体型を気にしつつどんどん殻を破っていくキャットというキャラクターを見事に演じていたバービーが、ここではまた違う方向にはっちゃけた役にハマっている。
 
この作品では妊娠の経緯が語られていた。ヘイリー演じるヴェロニカの彼氏は行為中にコンドームが破れたことに気づいていたが、ビビらせたくなかったから言わなかったと言い訳する。ヴェロニカは「すぐ言ってくれたら緊急避妊薬が買えたのに!」と怒るのだが、全くその通りだ。先日別のドラマでも、男性が途中でコンドームを外し「気にしないと思って」とそのことを女性に訊かれるまで言わなかった場面があった。これはステルシングといって立派なレイプだということをその作品で学んだ。
 
ベタな青春映画らしく、道中では都合よくロマンチックな出会いもあるのだが、この相手の女性がめちゃくちゃかっこいい。誰かと思えば歌手のBetty Whoだった。『Breaking Bad(ブレイキング・バッド)』のジャンカルロ・エスポジートも出てきて、(私が知る限り)珍しく良い人を演じる。
 
ジョークのちょっと狙いすぎた感じが面白くなくなるスレスレで、若干冷めた目で観ていたところもあったのだが、クソな奴はきちんと成敗するし、大事なところではちゃんと大人が守ってくれる安心感が良かった。
 
アメリカでは宗教も絡んでいてよりセンシティブな題材なので、もちろん反発もある。Unpregnantの予告編が公開された時には、HBO Maxのツイートに「非表示」の返信があるので何かと思ったら中絶に反対する過激なリプライが多々付いていた。他の作品でも目にした人も多いと思うが、アメリカのドラマや映画でクリニックに中絶しに行くシーンでは、必ずpro life派が建物の前で抗議活動をしている。あのような中で身の安全を気にしながらクリニックにたどり着かないといけない辛さと、時代遅れの危険な方法が主流の日本の中絶の酷さをつい比べてしまう。
 
どれも男性にこそ観てほしい作品だが、こうテーマとして押し出しているとなかなか観てもらえないのかなとも思う。授業で観せてくれればいいのに。

ハリウッドはアジア文化の軽視をやめろ、餅の声を聴くな

ニューヨークが舞台のNetflixシリーズをハリウッドと一緒くたにして良いのか分からないが、とにかく今回文句を言いたいのは『Dash & Lily(ダッシュ&リリー)』だ。Netflixといえば進歩的な作品が多い印象があるかもしれないが、実はあえて前時代的でベタな作品も多い。タイトルにクリスマスと入っていればだいたいそうだ。一般女性が異国の地で王子様に見初められるとか、異国のお姫様が自分と瓜二つのドッペルゲンガーだったとか。
 
 
ダッシュ&リリーはタイトルにこそクリスマスの文字は入っていないが、全編を通してクリスマスムード全開のティーンドラマだ。そもそも原作がヤングアダルトなので、大味であろうことは想像していた。この作品で注目したいのは、ヒロインのリリーが日系だということだ。
 
今年は日系キャラ躍進の年だった。『The Baby-Sitters Club(ベビー・シッターズ・クラブ)』(Netflix)のクラウディア・キシ(モモナ・タマダ)は、おしゃれでクールでアートが得意で、ガリ勉で大人しそうな日本人のステレオタイプを破る画期的なキャラだ。後から知ったがその存在は原作小説の出版時から大変アイコニックで、Netflixではアジア系クリエイターたちがこのキャラへの愛を語るドキュメンタリーも配信されたほどだ。このドラマでは途中クラウディアの祖母が日系人収容キャンプについて語るエピソードもある。
 
 
 
『Never Have I Ever(私の"初めて"日記)』(Netflix)では、学校一のモテ男、パクストン・ホール・ヨシダをダレン・バーネットが演じた。役名に日本の苗字がなかったら、彼の見た目と名前だけでは、日系であることに気がつかなかったかもしれない。実際当初このキャラには日系の設定はなかったが、彼が日系であることを知ったプロデューサーのミンディ・カリングがそれを取り入れ、日本語をしゃべるシーンも入れたという。
 
 
 
それほど出番はなかったが、映画『GOOD BOYS(グッド・ボーイズ)』では小学校の人気者の男子が日系の設定だった。そして、この作品で小学生たちを追い回すなかなか激しい女の子を演じたのが、ダッシュ&リリーでリリー役のミドリ・フランシスだ。リリーは苗字こそ明かされないものの(お父さんは白人)、ジェームズ・サイトウ演じるおじいちゃんの苗字はMoriで、お母さんはジェニファー・イケダ、兄はトロイ・イワタが演じる。
 
序盤は特にリリーがアジア系であることがアピールされることはなく、服がすべて自分の手作りであるという以外は部屋も(テレビで見る)アメリカの普通のティーンエイジャーのものだ。めちゃくちゃ天真爛漫な朝ドラ系キャラだが、同年代の友達がいないらしい。小さい頃にマイノリティであるが故に受けたトラウマが原因らしく、大学生や大人とつるんで聖歌隊をやっていたりする。
 
大好きなクリスマスに家族が予定を入れてしまい一緒に過ごすことができないと知ったリリーは、恋人を作らねば、との強迫観念で(兄のゴリ押しもあって)従兄が働く本屋にあるノートを仕込む。ノートは文学好きでないと分からないヒントを次々解いていくと先に進めるゲームのようになっており、リリー好みの年頃の男子を選別するための質問も書いてある。これをたまたま見つけて解き進んだダッシュ(オースティン・エイブラムス)が、今度は自分からヒントを書き込み、リリーと会わないままノートを通してやり取りしていく。
 
ノートではさまざまな行動も指示される。ダッシュはある日、リリーの指示通りに“餅作り教室”に参加する。そこには英語を話さないらしい日本人のおばあちゃんたち。(追記:BGMはSukiyaki)リリーは日記に「言葉が通じないとはどんなことか体験してみて」と書いている。通じないというか、ダッシュは英語で話しかけるが、おばあちゃんたちはお互いにも一言もしゃべらない。日本語もだ。
 
人には身振り手振りというものがあるのに、誰にも教えてもらうこともできず、ダッシュは見よう見まねで餅(要は大福)を形作ってみる。すると、不出来だわね、といわんばかりの表情のおばあちゃんが、無言でその餅をゴミ箱に捨てる。ダッシュがノートに目を落とすと、そこにはリリーからのアドバイス
 
Listen to mochi.
 
餅の声を聴け。
 
餅がしゃべるのか? 唸るのか? ここをつねって、とかここを押して、と言うのか? それとも耳を澄まして禅の心を習得すれば、途端に菓子職人の手さばきが身につくのか? 日本人だからといって皆が物と会話しているわけではない。あんまりKonmariさんの番組を真に受けないでほしい。しかしそこはさすがハリウッド、ダッシュは餅の声を聴き取ることに成功し、きれいな形の餅を作る。おばあちゃんたちは、さっきまで無視していたのが嘘のようにダッシュのほうを向き、一斉に笑顔で拍手する。👏👏👏
 
続いて出てくる日本的なシーンは、大晦日の家族の食卓だ。厳かにお屠蘇をまわしているが、食卓には年越しそばが控えている。どのような順番で何を飲み食いしようと各家庭の勝手だが、わざわざこんなシーンを入れるなら、一般的なやり方をちゃんと調べてくれたっていいだろう。
 
リリーと両親は父親の急な都合でフィジーに引っ越すことになり、おじいちゃんは家族が集まる最後の機会にと、正月に仏教会を借りる。それまでこの家族がそんなに信心深いことを示す描写は何一つしていないのにだ。
 
そしておじいちゃんは、孫2人にお年玉を渡す前に、一人ずつこの一年間の講評を始める。そもそも高校生と大学生の2人はお年玉をもらうには大きすぎると思うが、それを差し置いても、お年玉をもらう前に「お前は大学にも戻らずフラフラして…」なんて儀式のように説教を聞かされるところなど日本では見たことがない。いやそういう家庭もあるのかもしれないが、あったとしてもそんな家父長制バリバリの家庭をさも日本のスタンダードのように見せてほしくない。
 
この作品は、原作者も白人だし、imdbを見る限りキャスト以外に日系人もいそうにない。いたとしても、少なくとも意見を出せる立場にはなさそうだ。リリーの設定が日系である必然性はストーリー上まったくなく、それでもそのような設定をあえて選んでくれるのは大いに歓迎したいが、数あるハリウッド作品の例に漏れず、都合良くエキゾチックな要素を大して調べもせず入れ込んだだけになってしまっている。
 
これがアフリカン・アメリカンラテンアメリカンの文化を描いたものだったら反発があったと思うが、英語圏では批判はほとんど見られない。
 
もともと「今年は日系representationが熱い」というテーマの記事を年内どこかで書きたいと思っていたが、この作品が180°方向転換させた。主演2人はひたすら可愛いだけに残念だ。
 
ベビー・シッターズ・クラブはシーズン2の制作が決定しているので、クラウディアの活躍に期待したい。

コロナのある世界のドラマの話

コロナのある世界を反映する作品がちょこちょこ出てきた時は、なんだかやるせない気持ちだった。フィクションの中くらい、現実逃避させてくれたっていいのに。でもいつまでもそうは言ってられない。感染対策をしなければ撮影がいつまでもできないし、特に時世を反映させたドラマなんかは、この状況を無視していれば着々と現実味を失っていく。都合の良いところだけいつまでも逃げている訳にはいかない。
 
 
最初に観たリモート撮影作品は、『Staged』(英BBC)だった。デヴィッド・テナントマイケル・シーンが本人役で自宅から登場し、新しい演劇作品のリハーサルを遠隔でやるという名目で、ビデオ通話で延々と話しているだけの会話劇だ。舞台経験豊富で気心知れた2人の掛け合いはそれだけで楽しく、ずっと似たような画面なのに飽きさせない。リハーサルは一向に始まらず、実質近況報告をしたり、作品クレジットでどちらを先にするか言い争ったり、自主隔離生活で描いてみた絵を見せあったり、彼らが席を外していると思ったらそれぞれのパートナー(ジョージア・テナント、アンナ・ランドバーグ)が出てきて世間話をしてたりする。
 
どんな立場でもコロナで大変な思いをしていることに変わりないだろうが、彼らの場合は経済的にはそこまで困っておらず、とりあえずこうしてリモートで仕事をすることもできる。そして素敵な家族がいる。この状況を面白おかしく描いてくれる作品ももちろん必要なのだが、どこか「いいなあ幸せそうで」と思ってしまう自分もいた。
 
 
そんな時に不意に出会ったのが『Mythic Quest: Ravens' Banquet(神話クエスト:レイヴンズ・バンケット)』(Apple TV+)だった。『It's Always Sunny in Philadelphiaフィラデルフィアは今日も晴れ)』のロブ・マケルヘニーが企画・主演するゲーム会社を舞台にしたコメディで、正直9話まではそこそこといった感じだった(別格のスタンドアローンエピソードの5話についてはまた今度)。ところがスペシャルエピソードとして後から配信された10話が感動的だった。
 
ゲーム会社なので彼らも経済的にはいつも以上に潤っているし、仕事もリモートでできる。しかし若くて独身の、コミュニケーションがあまり得意でないような社員も多い。リードエンジニアのポピー・リー(シャーロット・ニクダオ)は、隔離生活の中で仕事に没頭し、それが一段落すると何をすればいいか分からず精神的に参ってしまう。クリエイティブディレクターのイアン・グリム(マケルヘニー)がビデオ会議で映像をオンにしてくれないポピーの様子を案じて問いただすと、ポピーは暗い部屋の中で泣いてボロボロになった顔を晒す。イアンはロックダウン最中の街を歩いてポピーに会いに行く(2人が友人関係だからできることで、そうでなかったら実質上司のイアンが家に来るのは怖いが)。
 
もちろんコメディなので、孤独に苦悩する人だけでなく、この状況なりの楽しみ方も描く。ビデオ会議でお互いの画面が隣り合っていることを利用して物をやりとりしているようなフリをする遊びはマネしたくなったし、ゲーム会社なので画面もそれぞれのウェブカメラ映像だけでなく、ゲームのプレー画面やコーディング画面も活用していて楽しかった。リモート撮影には最も適した舞台設定かもしれない。
 
 
そうこうしているうちに、感染対策をしながらリモートでなく現場で撮影しているドラマも始まった。Walmartのような大手スーパーが舞台の『Superstore』(米NBC)は、まさにエッセンシャルワーカーとして仕事を休むことができないスーパーの従業員たちが主役のコメディだ。社会問題に切り込むことが得意なこの作品はシーズン6の放映が始まったばかりだが、トイレットペーパーやマスクを買い占める客、マスク着用を拒むいわゆるKaren、やたらヒーローと賛美され戸惑う従業員たち、コロナ対応で多忙な中のBLMデモも既に描いた。
 
2話はシーズン1からメインキャラクターの一人だったエイミー・ソーサ(アメリカ・フェレーラ)の卒業エピソードで、何シーズンも焦らしてエイミーとやっとカップルになったジョナ・シムズ(ベン・フェルドマン)との別れの回でもあった。そんなエモーショナルな回なのに、コロナのおかげでハグもキスも一切なし。この時が一番コロナを呪ったかもしれない。元店長のグレン・スタージス(マーク・マッキニー)と別れを惜しむシーンでは、ハグの代わりに2人とも自分を抱き締めていて笑ってしまった。
 
 
エッセンシャルワーカーといえば医療従事者も忘れてはならない。『Grey's Anatomy(グレイズ・アナトミー)』(米abc)のシーズン17は、同作の舞台であるグレイ・スローン記念病院がコロナ指定病院になって少し経ったところから始まった。もともとマスクをしたシーンが多かったので違和感も少ないが、防護服のような服装を見る度に事の重大さをひしひしと感じる。
 
医師たちは多忙で疲弊しており、患者をコロナで失う度にこれまでにない無力感に苛まれる。現実世界で有効なワクチンが開発されていないのに魔法のように繰り出すわけにもいかないので、この先暗くなる一方なのだろうかと心配になる。マスクの効率的な殺菌方法(紫外線ライト?のようなもので部屋中にぶら下げたマスクすべてを一気に殺菌する)を医師が提案する場面があったが、あれは現場でも採用されているものなのだろうか。
 
もともと医者が所構わずイチャイチャしているドラマなのでそこも心配していたがそういうシーンは健在で、逆に「あれ…こんなイチャイチャして…いいの…?」となる。検査をパスしていれば良いということなのだろうか。
 
予期していなかったのは、主要キャラがコロナ患者となったことだ。医療ドラマでしかもコロナ指定病院が舞台だからそうなる可能性は大いにあるのに、どこかまだ他人事に捉えていたのかもしれない。コロナで主要キャラが死んでしまったら破局どころの騒ぎではない。でも時世を反映するとはそういうことだ。
 
主人公メレディス・グレイを演じプロデューサーでもあるエレン・ポンピオからは、「シーズン17で終わりかも」との発言も出ている。コロナ禍の世界を描くのに疲弊してしまったということでなければ良いが。